西泊村
にしどまりむら
[現在地名]上対馬町西泊
古里村の東に位置し、集落は西泊浦に臨む。二〇里一〇町の府中(現厳原町)より朝鮮半島に渡る船、東面を航行する船が西風が吹く際の浦泊にしたことから地名が生じたとされ(津島紀略・津島紀事)、南風泊とともに海運にかかわる地名であろう。北部の権現山は飛ヵ嶽とも称され、古代の烽が置かれたことに由来するともいうが、遺構などは確認されていない。中世は豊崎郡のうち。文禄元年(一五九二)五月一九日島津氏の軍勢は府中湊に着船し、同月二一日志多賀津(現峰町)に向かい、二二日「西泊と申ミなと」に向かい、二三日夜半に舟出して大戸湊(現上県町)に着き、さらに住吉瀬戸(現美津島町)を通行している(「新納忠増日記」旧記雑録)。同年八月島津氏の家臣大島忠泰の薩摩船など五六艘は壱岐勝本(現勝本町)から住吉灘に入って鴨瀬(現美津島町)・志多賀を経て、同月二三日それより八里の「にしとまりと申うら」に至り、二四日一〇里の鰐浦に着船、二五日一五〇艘で高麗に向かった(同月二九日「大島忠泰書状」同書)。
西泊村
にしどまりむら
[現在地名]大月町西泊・赤泊
樫浦村の南東にある。前面海中に黒碆・松碆をはじめ岩礁が点在し、それらの岩礁の西に岡大島・沖ノ大島が浮ぶ。湾奥の村で、わずかに開けた海浜部に集落を形成する。「土佐州郡志」は「西泊浦南向 東西一町許南北二町許、戸凡三十余、漁船数艘」と記し、「煮潮処 西浜」と「経塚岩 浦村西山際、伝云埋般若経処」をあげる。
天正一七年(一五八九)の西泊狐塚両村地検帳によれば検地面積一〇町四反余、屋敷数二二うち居屋敷一三。「柏浦ト西泊トノ堺ハ立石限」とある。江戸時代の当村は元禄地払帳によると総地高一五六石余、うち本田高一二五石余で蔵入地、新田高三〇石余で二五石は河内権左衛門領知、五石余は貢物地。
西泊村
にしどまりむら
[現在地名]長崎市西泊町
立神村の南西、長崎浦の西岸にあたる。東泊ともよばれた戸町浦に対して西泊と称されたという。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、元禄国絵図および享和二年(一八〇二)の長崎絵図に西泊とみえ、南部の入江に長崎波止場まで二〇町余とある。番所・台場のほか、浦に臨んでスシ・男神・イカツ・姥カフトコロ・神崎などが記される。弘化二年(一八四五)「浦上村淵西泊郷」の友次郎、同稲佐郷の太四郎、岩瀬道郷の才助らは波戸場の前などで出漁中に海底から鉄碇を引上げ、これを売払ったところ露見して捕らえられ、入牢を申付けられた(口書集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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