日本歴史地名大系 「西野新田」の解説 西野新田にしのしんでん 新潟県:南蒲原郡中之島村西野新田[現在地名]中之島村西野信濃川右岸、中条(ちゆうじよう)新田・下沼(したぬま)新田の下流にあり、北は対岸の熊森(くまのもり)村・横田(よこた)村(現西蒲原郡分水町)に境し、東は大沼(おおぬま)新田。集落は信濃川の氾濫により漸次南に移動、現在地に落着いたという。集落北方、現西野神社周辺には左次右衛門屋敷(さじえもんやしき)・佐助屋敷(さすけやしき)・兵右衛門(ひようえもん)・善太郎(ぜんたろう)などと通称する水田があった。元和四年(一六一八)の中西(なかさい)村羽賀角助宛開発免状(羽賀家文書)に「西野之内赤沼興野新田之事」とみえ、寛永二一年(一六四四)の御領内新田高付同物成帳(新発田市立図書館蔵)に西野新田とあり、高二六五石八斗余。開発年号並庄屋名主遣書覚書(星野重平氏蔵)は慶長九年(一六〇四)の開発とする。 西野新田にしのしんでん 新潟県:新潟市旧中蒲原郡地区西野新田[現在地名]新潟市西野江口(えぐち)村・大渕(おおぶち)村の西に立地し、四周水田。寛永一四年(一六三七)の開発といわれる。同一六年の横越島絵図(青木正昭氏蔵)は「にしの新田」と記す。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると四六軒・三二〇人。天和三年(一六八三)の開田帳(星山久氏蔵)によれば当村の百姓九人が、灰塚・壱分切・大山の三ヵ所三反余を開発、分米四斗九升八勺であった。 西野新田にしのしんでん 大阪府:堺市西野新田[現在地名]堺市西野丈六(じようろく)村の南に位置し、新田の東側を西除(にしよけ)川が北流する。河内国丹南郡に属する。元禄中頃幕府より大野芝(おおのしば)の開発許可を得た太田新蔵・浅田喜兵衛より北野田(きたのだ)村の百姓ら三〇余人が譲り受け、同一三年(一七〇〇)開発に着手、同一五年完了し、検地を受け西野新田と称した。高一二二石余(享保一八年「草尾新田由来并年々聞書」児山家文書)。元禄一五年の西野新田庄屋役願書(井上家文書)によれば、新田開発に当たった北野田村百姓三二人の連名で庄屋役について本村庄屋一族の吉左衛門を願出ている。 西野新田にしのしんでん 大阪府:大阪市此花区西野新田[現在地名]此花区西九条(にしくじよう)三丁目・同五丁目南西流する六軒屋(ろつけんや)川の左岸にある。もと九条(くじよう)村(現西区)の堤外地であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)九条村の池山新兵衛が地代金二六五両を幕府に納めて開発、元禄一五年検地を受けて五三石余が高付された(西成郡史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by