鎌倉時代の僧。鎌倉旧仏教のなかにあって、律(りつ)の思想を鼓吹した。字(あざな)は学律。大和(やまと)(奈良県)の人。1212年(建暦2)に解脱上人(げだつしょうにん)(貞慶(じょうけい))が律を復興するため20人の僧を選んだが、彼はその一人に選ばれた。明慧(明恵)(みょうえ)上人に華厳(けごん)を、戒如(かいにょ)(生没年不詳)に律を学び、1236年(嘉禎2)には叡尊(えいぞん)らとともに東大寺の大仏殿で自誓受戒(じせいじゅかい)(戒師がいないとき、仏前で自ら誓って大乗戒を受けること)した。仁治(にんじ)年間(1240~1243)には四条(しじょう)天皇に菩薩(ぼさつ)戒を授け、また勅(ちょく)により唐招提寺(とうしょうだいじ)に住した。後醍醐(ごだいご)天皇は彼を大悲(だいひ)菩薩と諡(おくりな)した。覚盛は鑑真(がんじん)の再来といわれ、律の復興に果たした功績は大きく、弟子も多かった。
[由木義文 2017年6月20日]
(細川涼一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…鎌倉時代,笠置寺の解脱房貞慶は浄土教に対して釈尊信仰を提唱するかたわら戒律復興に挺身したが,当寺に釈迦念仏会を創始し,1203年(建仁3)に大会を行った。中興の祖と称せられる覚盛(かくじよう)(1194‐1249)は四条天皇に菩薩戒を授けたが,43年(寛元1)に舎利会を創設して鑑真の遺徳を高揚し,律書を講じて戒律の流布と子弟の育成に当たった。法灯を継いだ証玄(1220‐92)は諸伽藍の修理をはじめ,講堂の弥勒仏や清凉寺式釈迦立像の造像を行うかたわら,戒壇を創設し,平安時代以降の衰退した寺観の整備を大規模に行った。…
…律令制度の崩壊とともに,登壇受戒や持律の制は顧みられなくなり,律宗は衰微の一途をたどった。しかし平安時代末期にいたり,実範や貞慶(じようけい),明恵,戒如(かいによ)などにより戒律復興の気運が高まり,唐招提寺覚盛(かくじよう),西大寺叡尊,不空院円晴により律宗再興がはかられた。一方,1211年(建暦1)に入宋求法より帰国した泉涌寺の俊芿(しゆんじよう)は中国直伝の律書とともに律宗を伝え,泉涌寺を天台・禅・律3宗兼学の道場として律宗の復興をはかり,後鳥羽天皇,藤原道家,北条泰時をはじめ朝野の帰依をうけた。…
※「覚盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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