仏教の宗派。中国では十三宗の一、日本では奈良時代の南都六宗の一つ。律とは毘奈耶(びなや)(サンスクリット語ビナヤvinayaの音訳)の漢訳で、比丘(びく)・比丘尼(びくに)の守るべき規範のことである。出家者の教団における規定の集成書を律蔵といい、インドから中国へ伝えられた。インド各部派の伝えた律蔵のうち4種が漢訳されたが、そのうち「四分律」によって中国で南山律宗、相部宗(そうぶしゅう)、東塔宗(とうとうしゅう)の律宗が唐代に成立した。なかでも唐初期に南山大師道宣(どうせん)の開いた南山律宗は、本来は部派仏教の四分律を大乗的に受容し、長く命脈を保った。南山律宗を受けた鑑真(がんじん)は、12年間の苦難のすえ日本に渡り、754年(天平勝宝6)東大寺に入った。そしてここに戒壇院(かいだんいん)を設けて、日本における授戒の根本道場とし、759年(天平宝字3)唐招提寺(とうしょうだいじ)を開創し、戒律研究の中心とした。日本における授戒は鑑真にまかされ、日本の律宗が発足した。また九州大宰府(だざいふ)の観世音寺(かんぜおんじ)と下野(しもつけ)(栃木県)の薬師寺にも戒壇が設けられ、正式の僧になろうとする者はこの3戒壇のいずれかで受戒の儀式を行わねばならなかった。
百済(くだら)の仏教が戒律を重視していたこともあって、日本の仏教でも伝来当初から戒律が重視されていた。戒律の条項は、在家には五戒と六斎日(ろくさいにち)に守るべき八戒、出家には沙弥(しゃみ)・沙弥尼の十戒、学法女の六法、比丘・比丘尼の具足戒(ぐそくかい)(比丘は二百五十戒、比丘尼は三百四十八戒)の区別がある。比丘・比丘尼はそれぞれの戒律を守ることを誓う(受戒)儀式を、10人の正式な僧(辺地で5人)の立会いのもとで行うことによって初めてそれぞれの資格が認められた。鑑真以前は受戒の儀式も教えどおり行われず、私度僧(官許を得ていない僧)も増え、儀式制度の確立が必要であった。このために来日を要請されたのが鑑真で、戒壇が設立されると授戒は鑑真に任されることになった。
日本では律宗は、仏教で重視される経・律・論のうち律を、戒・定(じょう)・慧(え)のうち戒を中心とするため戒律宗ともよばれる。平安初期、天台宗が四分律を用いず、大乗戒のみによる大乗戒壇設立を行ったこともあり、律宗は衰退したが、平安末期には戒律の復興の必要性が痛感され、中ノ川実範(じちはん)(?―1144)はその復興に着手した。覚盛(かくじょう)は「自誓受戒(じせいじゅかい)」制度の確立により唐招提寺中興の祖とされる。ほかに、泉涌寺(せんにゅうじ)開山俊芿(しゅんじょう)は入宋(にっそう)して北京律(ほっきょうりつ)を伝えた。西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、忍性(にんしょう)の系統は密教と結び付き、現在は真言律宗(しんごんりっしゅう)と称しており、唐招提寺系が律宗を公称する。
律宗は寺院数28、教師数17、信者数2万3950。真言律宗は寺院数91、教師数128、信者数10万2400(『宗教年鑑』平成26年版)。
[田村晃祐]
『石田瑞麿著『日本仏教における戒律の研究』(1963・在家仏教協会)』▽『細川涼一著『中世の律宗寺院と民衆』(1987・吉川弘文館)』▽『佐藤達玄著『律宗要綱』(1994・大蔵出版)』
中国仏教十三宗の一つ。戒律とくに《四分律》を所依(しよえ)として開宗された。東晋時代に《十誦律》《四分律》《摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)》などの律部経典が中国に伝訳されると,律に関する研究が盛んとなり,特に《四分律》が北魏の法聡と慧光(468-537)によって重視され,四分律宗が成立するが,のちに三つの分派を生じた。慧光の系統をうけた唐初の道宣は,終南山に住して《四分律行事鈔》をはじめとする戒律学の5大部を著して南山律宗を開いた。一方,法励(ほうれい)(569-635)は《四分律疏》を著して相部宗を開き,その弟子の懐素(625-698)は《四分律新疏》を撰して東塔宗を開いた。3宗のうち,相部宗と東塔宗はまもなく衰微し,南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられた。日本の栄叡(ようえい)と普照は相部宗を伝え,辛苦の末に来日した鑑真が南山律宗を伝えたのであり,宋の元照(がんじよう)(1048-1116)の律解釈は泉涌(せんにゆう)寺の俊芿(しゆんじよう)によって早速に日本にもたらされた。なお,義浄は《根本説一切有部律》を将来し,これこそ最も純正な律であると信じ漢訳したが,律宗にたいした影響は与えなかった。
執筆者:礪波 護
日本では律宗は八宗および南都六宗の一つで,12年の歳月と6回の渡航によって754年(天平勝宝6)に来日した伝戒師鑑真の一行によって伝えられた。そして755年9月に東大寺に戒壇院,761年(天平宝字5)1月に下野薬師寺,筑紫観世音寺に戒壇院が創建されて〈天下三戒壇〉の制が設けられ,官僧受戒の場とした。一方,鑑真は唐招提寺を創立して僧尼の規範である律宗の指導流布につとめ,政府はまた諸大寺に戒師団を施入して戒律の研究,普及などをはかった。天台宗を開いた最澄は,《梵網経》によって大乗戒壇創立を提唱し,没後その創建が勅許されるにおよび,南都を中心とした従来の律宗の戒律は小乗戒とする見解が普及した。律令制度の崩壊とともに,登壇受戒や持律の制は顧みられなくなり,律宗は衰微の一途をたどった。しかし平安時代末期にいたり,実範や貞慶(じようけい),明恵,戒如(かいによ)などにより戒律復興の気運が高まり,唐招提寺覚盛(かくじよう),西大寺叡尊,不空院円晴により律宗再興がはかられた。一方,1211年(建暦1)に入宋求法より帰国した泉涌寺の俊芿(しゆんじよう)は中国直伝の律書とともに律宗を伝え,泉涌寺を天台・禅・律3宗兼学の道場として律宗の復興をはかり,後鳥羽天皇,藤原道家,北条泰時をはじめ朝野の帰依をうけた。俊芿の伝えた律を北京律と称し,唐招提寺,西大寺の系統を南京律と称している。しかしその後両者互に交流し,さらに叡尊は弟子を入宋させて律三大部を輸入するなど,相互の見解の相違はまったく解消するにいたった。13世紀後半に律宗の布教流布はいちじるしく,叡尊の弟子忍性などにより関東にも及び,日蓮から〈律国賊〉と批判されるほどその実践力が評価されたし,東大寺戒壇院を中心に円照やその弟子凝然(ぎようねん)などの人材が輩出した。しかし以後みるべき活動はなく,江戸時代の初め,洛西槙尾平等心王院の明忍(1576-1610)が退廃した戒律の復興をはかった以外にみるべきものはない。現在唐招提寺に律宗,叡尊以来西大寺に真言律宗が伝えられている。
執筆者:堀池 春峰
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南都六宗の一つ。日本仏教十三宗の一つ。浄戒を固く守ることにより成仏をめざす宗派。「四分律」や「梵網(ぼんもう)経」などを所依の経典とする。唐招提寺創建の鑑真(がんじん)を宗祖とし,法進・如宝・豊安・思託らが継承したが,平安時代に入って衰退した。平安末期に実範がでて戒律の衰微を憂え,鎌倉初期には貞慶が戒律の復興を企図し,弟子の覚真は興福寺に常喜院を創建して律学道場とした。鑑真以後衰滅した如法(にょほう)の受戒を復興したのは覚盛(かくじょう)・円晴(えんせい)・有厳(うごん)・叡尊(えいぞん)の4人だった。叡尊は西大寺を拠点として教えを広め,弟子の忍性(にんしょう)は鎌倉極楽寺に拠って律宗の布教に努めるなど,西大寺流律宗は鎌倉時代を中心に全国的な広がりをみた。覚盛の唐招提寺流からは東大寺戒壇院中興の円照や凝然(ぎょうねん)らが輩出した。
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…奈良市五条町にある律宗の総本山。古くは唐律招提寺ともいわれ,単に招提寺ともいう。…
…奈良六宗ともいう。8世紀に官大寺などで研究されていた三論宗,成実(じようじつ)宗,法相(ほつそう)宗,俱舎(くしや)宗,華厳(けごん)宗,律宗の六宗を指す。六宗の成立以前に華厳宗を除く五宗が成立していたことは,718年(養老2)10月の太政官符に〈五宗の学,三蔵の教〉とあることからもうかがわれ,藤原氏祖先の伝記である《家伝》(鎌足伝)も藤原鎌足が飛鳥元興(がんごう)寺に五宗の研究の費用を寄付したと伝えている。…
※「律宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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