古義真言宗の別格本山で真言宗御室派に属したが、現在は単立。正式には栂尾山高山寺という。また日出先照高山之寺と称する。境内は国指定史跡。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
高山寺は天台宗
寺伝によれば、肥州国守内藤氏の夫人、妙観尼が当寺を建立。元応二年(一三二〇)棊山賢仙を請じて開山としたのに始まるという。その後、大内弘世は賢仙の徳を礼して寺領を寄進、また数寺を開き、法演の地とした(玖珂郡志)。賢仙は七ヵ所に寺を開き臨済宗を周防に布教。また道路を開き、井手をつくり七町歩の干田を沃田とした。文和元年(一三五二)没し、照覚晋済禅師の号を贈られた。貞和元年(一三四五)七月、足利尊氏は
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京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある真言宗(しんごんしゅう)系の単立寺院。山号は栂尾山。774年(宝亀5)に光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創。貞観(じょうがん)年間(859~877)、のちに13代天台座主(ざす)となり、また菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊(おんりょう)を鎮めたといわれる延暦寺(えんりゃくじ)の法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)が当山で修行し、法力を得たと伝える。1206年(建永1)後鳥羽(ごとば)上皇の院宣により明恵上人(みょうえしょうにん)高弁は当寺を賜り、「日出先照高山之寺」の勅額より寺号を高山寺と称し、堂塔を復興した。さらに上皇は加茂(かも)の別宮石水院(せきすいいん)をここに移し、しだいに末院、坊舎なども増加し、寺運隆盛に向かった。このため明恵上人を中興開山とする。明恵上人は華厳(けごん)の大家であったので、当時は華厳宗の教学と真言宗の教学を兼ねた寺であったが、近世以後は真言宗専修の道場となった。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱のとき、公家(くげ)方の将兵が大ぜい山中に逃れたので、明恵上人もこれに連座して北条泰時(やすとき)の兵に捕らえられたが、上人は泰時に無欲恬淡(てんたん)を説いて乱暴をやめさせたという。応仁(おうにん)の乱(1467~77)で焼失したが、織田、豊臣(とよとみ)、徳川の3氏がそれぞれ寺領を寄進し再興した。
明治維新のときにも罹災(りさい)したがその後復興し、現在は境内に石水院(国宝)、金堂、開山堂などが建つ。石水院(五所堂)は鎌倉初期、中興当時の唯一の建物で、入母屋造(いりもやづくり)であるが、一部に春日(かすが)・住吉(すみよし)の社殿様式を取り入れた複雑な建築である。開山廟(びょう)域内の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)・如法(にょほう)経塔は国重要文化財で、寺宝の鳥獣人物戯画4巻、仏眼仏母画像、華厳宗祖師絵伝6巻、明恵上人像は国宝。そのほか、絵画、古経典、古文書、墨蹟(ぼくせき)などの国重要文化財は数多い。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。栂尾山にある茶園は、明恵上人が栄西(えいさい)から贈られた茶を初めて植えた所といわれ、11月8日には上人の廟前に茶を献供する。
[祖父江章子]
京都市右京区にある寺。山号は栂尾(とがのお)山,古義真言宗の別格本山。寺地は清滝川の清流にのぞみ,寺域は老木におおわれ,また紅葉の名所としても名高い。鎌倉時代の初め,この地にあった天台の古刹度賀尾寺(とがのおでら)が神護寺の文覚(もんがく)によって復興され,神護寺の別院となった。しかし,この寺はまもなく荒廃し,1206年(建永1),後鳥羽上皇の命を奉じた明恵(みようえ)(高弁)が華厳宗興隆の道場として再興した。いまの高山寺の始まりである。それ以後,朝廷や幕府の崇信も厚く建物や寺領の寄進も続いたが,応仁の乱で衰微し,近世になって豊臣・徳川両氏の保護もあって寺観もやや整備され,これまでの華厳・真言の兼宗をやめて真言宗に転じた。なお茶道史の上で,栄西から中国の茶の種子を贈られた明恵が,当寺の山内にこれを植え,それ以来栂尾産の茶は中世を通じて〈本茶(ほんちや)〉と呼ばれ,栂尾以外でとれる〈非茶〉と区別されて珍重されたことが注目される。当寺の宝物はきわめて多い。建造物では,後鳥羽上皇の賀茂別院から移された石水院が国宝,開山廟域内にある鎌倉時代の宝篋(ほうきよう)印塔と如法経塔が重要文化財。美術品では,明恵が常に念持していた仏眼仏母像,明恵の修禅三昧の姿を描いた明恵上人座禅像,鳥羽僧正筆の伝承がある有名な《鳥獣戯画》(以上国宝)をはじめとして,国宝や重要文化財の絵画・彫刻・古文書・聖教(しようぎよう)など多数がある。
執筆者:藤井 学
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京都市右京区にある寺。栂尾(とがのお)山と号す。開創は未詳。鎌倉初期に文覚(もんがく)が神護寺の別院とした。1206年(建永元)後鳥羽上皇の命により明恵上人高弁が華厳宗の道場として再興。栄西から贈られた種子をもとに茶の栽培が行われた地として知られ,ここで産した茶は本茶とよばれ珍重された。30年(寛喜2)太政官符により四至(しいし)が定められ,絵図(重文)が製作された。室町時代には紅葉の名所として知られたが,のち兵火で多くの堂宇を失った。再興当時の建物としては国宝の石水院だけが現存。多数の典籍文書を蔵するほか,「明恵上人像」「鳥獣人物戯画」「華厳宗祖師絵伝」「仏眼仏母像」などの絵画はいずれも国宝。境内は国史跡。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…醍醐寺《五大明王像》や和歌山蓮華三昧院《阿弥陀三尊像》には伝統色が濃いが,醍醐寺《閻魔天像》は彩色法や描線に新しい変化をあらわし,1191年(建久2)の東寺《十二天屛風》(宅磨勝賀作)にいたって宋風の顕著な線描主義が出現する。高山寺《仏眼仏母像》も新しい様式の代表作であるが,この高山寺が宋風摂取の一拠点であり,そこには水墨画の導入もありえたとする説も出されている。
[前期の絵画,彫刻]
11世紀以来の浄土教の発展にともない数多くの来迎図が描かれ,これと関連して二河白道図や六道絵がつくられ,また垂迹(すいじやく)画が仏画から派生して盛行する。…
… 明恵はかねてインド仏跡参拝を計画していたが,1203年(建仁3)春日明神の神託により断念,05年(元久2)にも再度渡印の計画を実行に移そうとして《天竺里程書(印度行程記)》を作成したが,急病のため念願を果たせなかった。06年(建永1)11月に後鳥羽院から栂尾の地を賜り,弟子義林房喜海などを伴って移り,《華厳経》の〈日出先照高山嶺〉より高山寺と称することにした。まず金堂を造り,運慶・湛慶により釈迦や四天王像などが造られ,その後諸堂が整備された。…
※「高山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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