高山寺(読み)コウザンジ

デジタル大辞泉 「高山寺」の意味・読み・例文・類語

こうざん‐じ〔カウザン‐〕【高山寺】

京都市右京区にある単立法人の寺。もと真言宗御室派の別格本山。山号は栂尾とがのお山。古く度賀尾寺といい、建永元年(1206)明恵みょうえが再興して現寺号に改めた。石水院と、寺宝の鳥獣戯画巻・明恵上人像国宝。他に多数の古典籍類を所蔵。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「高山寺」の意味・読み・例文・類語

こうざん‐じカウザン‥【高山寺】

  1. 京都市右京区梅ケ畑栂尾町にある真言系単立寺院。山号は栂尾山。宝亀五年(七七四光仁天皇の勅願によって開創された神願寺都賀尾坊を、建永元年(一二〇六)明恵(みょうえ)中興開山し、現名に改称。後鳥羽上皇の学問所を移した石水院(五所堂)や収蔵する「鳥獣人物戯画」、「華厳宗祖師絵伝」などは国宝。ほかに宋版書籍や鎌倉時代の古文書が多い。紅葉の名所として知られる。

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日本歴史地名大系 「高山寺」の解説

高山寺
こうざんじ

[現在地名]右京区梅ヶ畑栂尾町

古義真言宗の別格本山で真言宗御室派に属したが、現在は単立。正式には栂尾山高山寺という。また日出先照高山之寺と称する。境内は国指定史跡。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔度賀尾寺の創建〕

高山寺は天台宗度賀尾とがのお寺に始まる。「日本高僧伝要文抄」に引く尊意贈僧正伝に「貞観十八年七月十五日、生年十一(中略)爰王城之北山有幽遠之精舎、号曰度賀尾寺、有苦行僧、名曰賢一、以般若心経其持呪、呪縛自本也、貞観御宇依呪縛業得度受戒也、親以彼僧家師矣、以其因縁、登彼道場、三年之間、不親家、蔬食苦行、幼稚之心不以為愁、日夜不断読誦千手施羅尼、元慶二年春、賢一永出久住之伽藍」とみえ、天台座主法性坊尊意が貞観一八年(八七六)度賀尾寺に入山し、三年間を当道場で修行したことが知られ、「扶桑略記」天慶三年(九四〇)二月二四日条もこのことを記す。天台宗の道場度賀尾寺はその後荒廃したが、高尾たかお(神護寺、現右京区)の文覚によって堂舎が建立され、神護じんご寺の別所となった(寛喜四年一月と思われる「明恵置文案」高山寺文書)。しかし正治元年(一一九九)文覚の佐渡配流(「百錬抄」など)によって再び荒廃した。

〔高山寺の成立〕

建永元年(一二〇六)一一月、後鳥羽上皇の院宣を奉じた明恵(高弁)が華厳宗興隆の道場として再興し、高山寺と号した(高山寺縁起)。明恵の再興については、「元亨釈書」に「(栂)尾者古練若之地、廃久矣、弁居此復院宇、承元二年還紀州、於内崎山伽藍、四年又帰梅尾、寛喜四年正月十五日夜、対弥勒像禅坐入観」とあって、当時の明恵の動きが知られる。


高山寺
こうざんじ

[現在地名]柳井市大字伊陸 門前

氷室ひむろ岳の西南麓にあり、臨済宗天龍寺派。日照山と号し、本尊は釈迦・阿難・迦葉の三尊。

寺伝によれば、肥州国守内藤氏の夫人、妙観尼が当寺を建立。元応二年(一三二〇)棊山賢仙を請じて開山としたのに始まるという。その後、大内弘世は賢仙の徳を礼して寺領を寄進、また数寺を開き、法演の地とした(玖珂郡志)。賢仙は七ヵ所に寺を開き臨済宗を周防に布教。また道路を開き、井手をつくり七町歩の干田を沃田とした。文和元年(一三五二)没し、照覚晋済禅師の号を贈られた。貞和元年(一三四五)七月、足利尊氏は安国あんこく寺利生塔を諸国に置くにあたって、高山寺を周防国安国寺に定めた。永徳元年(一三八一)には足利義満が高山寺の寺位を甲刹に列し、義持もまた開山塔の額に「大雄」と記したと伝える。


高山寺
こうざんじ

[現在地名]田辺市稲成町

田辺市街地を一望できる高台、近世の糸田いとだ村の北東部にある。正面南山蘇悉地院と号し、真言宗御室派。本尊阿弥陀如来。文化一三年(一八一六)の田辺領寺書上帳(田所文書)によれば、元来勧修かんしゆう寺と称したが、一時願成がんじよう寺と号し、寛永一五年(一六三八)勧修寺に復し、のち興算寺と改称、天明七年(一七八七)高山寺となったという。田辺藩古記録(宇井文書)所収の寛文六年(一六六六)の田辺領寺院書上や元禄七年(一六九四)の田辺領寺社改帳(田所文書)などは、聖徳太子開創伝説を記し、空海自作像を安置するといい、開創以来真言宗寺院であると述べている。


高山寺
こうざんじ

[現在地名]井原市高屋町 寺中

高屋たかや町の北部、きようまる山の南麓、標高約一八〇メートルの所にある。大乗山と号し、真言宗大覚寺派、本尊は愛染明王。「備中誌」は行基開創、本尊は行基作の如意輪観音という。寺蔵の康正二年(一四五六)一〇月一九日の紀年銘のある梵鐘(総高約九〇センチ、県指定重要文化財)には「高野郷 大高山寺」と刻され、願主「阿闍梨宥栄」、勧進「聖杲球並沙弥道仙」の名がみえる。


高山寺
こうざんじ

[現在地名]右京区西院高山寺町

四条通と西大路にしおおじ通の交差点の北東角に位置する。日照山と号し、浄土宗。本尊地蔵菩薩、ほかに十一面観音を安置する。創建年月は不詳であるが、善西の開基と伝え、「親長卿記」文明一三年(一四八一)九月一六日条に「参詣西院号高西寺并壬生地像等」とあり、高西寺と号している。「山城名跡巡行志」にも「高西寺 在当村(西院村)本尊地蔵」とあるから、中近世を通じて地蔵尊に対する信仰で知られていたらしい。


高山寺
こうざんじ

[現在地名]藤枝市本郷

烏帽子形えぼしがた(三九二・七メートル)の西麓、瀬戸せと川左岸にある。道場山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。初めは真言宗寺院で大刹であったが、天文五年(一五三六)今川義元の兵火により灰燼に帰したという。同年八月二五日義元から寺領を寄進されたが、その後領主によって押領されていたため、永禄三年(一五六〇)一〇月一六日今川氏真は改めて寺領を寄進している(「今川氏真判物」普門寺文書)


高山寺
こうさんじ

[現在地名]小川村稲丘

真言宗。宝珠山高山寺という。本尊は聖観音、脇侍は不動明王・毘沙門天である。創始の年月は不詳。古くは大和国長谷はせ寺の末派であったが、元禄八年(一六九五)更級さらしな赤田あかだ(現長野市信更町赤田)専照せんしよう寺末派となる(長野県町村誌)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高山寺」の意味・わかりやすい解説

高山寺
こうざんじ

京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある真言宗(しんごんしゅう)系の単立寺院。山号は栂尾山。774年(宝亀5)に光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創。貞観(じょうがん)年間(859~877)、のちに13代天台座主(ざす)となり、また菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊(おんりょう)を鎮めたといわれる延暦寺(えんりゃくじ)の法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)が当山で修行し、法力を得たと伝える。1206年(建永1)後鳥羽(ごとば)上皇の院宣により明恵上人(みょうえしょうにん)高弁は当寺を賜り、「日出先照高山之寺」の勅額より寺号を高山寺と称し、堂塔を復興した。さらに上皇は加茂(かも)の別宮石水院(せきすいいん)をここに移し、しだいに末院、坊舎なども増加し、寺運隆盛に向かった。このため明恵上人を中興開山とする。明恵上人は華厳(けごん)の大家であったので、当時は華厳宗の教学と真言宗の教学を兼ねた寺であったが、近世以後は真言宗専修の道場となった。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱のとき、公家(くげ)方の将兵が大ぜい山中に逃れたので、明恵上人もこれに連座して北条泰時(やすとき)の兵に捕らえられたが、上人は泰時に無欲恬淡(てんたん)を説いて乱暴をやめさせたという。応仁(おうにん)の乱(1467~77)で焼失したが、織田、豊臣(とよとみ)、徳川の3氏がそれぞれ寺領を寄進し再興した。

 明治維新のときにも罹災(りさい)したがその後復興し、現在は境内に石水院(国宝)、金堂、開山堂などが建つ。石水院(五所堂)は鎌倉初期、中興当時の唯一の建物で、入母屋造(いりもやづくり)であるが、一部に春日(かすが)・住吉(すみよし)の社殿様式を取り入れた複雑な建築である。開山廟(びょう)域内の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)・如法(にょほう)経塔は国重要文化財で、寺宝の鳥獣人物戯画4巻、仏眼仏母画像、華厳宗祖師絵伝6巻、明恵上人像は国宝。そのほか、絵画、古経典、古文書、墨蹟(ぼくせき)などの国重要文化財は数多い。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。栂尾山にある茶園は、明恵上人が栄西(えいさい)から贈られた茶を初めて植えた所といわれ、11月8日には上人の廟前に茶を献供する。

[祖父江章子]

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改訂新版 世界大百科事典 「高山寺」の意味・わかりやすい解説

高山寺 (こうざんじ)

京都市右京区にある寺。山号は栂尾(とがのお)山,古義真言宗の別格本山。寺地は清滝川の清流にのぞみ,寺域は老木におおわれ,また紅葉の名所としても名高い。鎌倉時代の初め,この地にあった天台の古刹度賀尾寺(とがのおでら)が神護寺の文覚(もんがく)によって復興され,神護寺の別院となった。しかし,この寺はまもなく荒廃し,1206年(建永1),後鳥羽上皇の命を奉じた明恵(みようえ)(高弁)が華厳宗興隆の道場として再興した。いまの高山寺の始まりである。それ以後,朝廷や幕府の崇信も厚く建物や寺領の寄進も続いたが,応仁の乱で衰微し,近世になって豊臣・徳川両氏の保護もあって寺観もやや整備され,これまでの華厳・真言の兼宗をやめて真言宗に転じた。なお茶道史の上で,栄西から中国の茶の種子を贈られた明恵が,当寺の山内にこれを植え,それ以来栂尾産の茶は中世を通じて〈本茶(ほんちや)〉と呼ばれ,栂尾以外でとれる〈非茶〉と区別されて珍重されたことが注目される。当寺の宝物はきわめて多い。建造物では,後鳥羽上皇の賀茂別院から移された石水院が国宝,開山廟域内にある鎌倉時代の宝篋(ほうきよう)印塔と如法経塔が重要文化財。美術品では,明恵が常に念持していた仏眼仏母像,明恵の修禅三昧の姿を描いた明恵上人座禅像,鳥羽僧正筆の伝承がある有名な《鳥獣戯画》(以上国宝)をはじめとして,国宝や重要文化財の絵画・彫刻・古文書・聖教(しようぎよう)など多数がある。
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百科事典マイペディア 「高山寺」の意味・わかりやすい解説

高山寺【こうざんじ】

京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある単立の寺で,もと古義真言宗の別格本山。天台宗の尊意の創建と伝え,1206年明恵が再興。華厳の道場として栄え,すぐれた絵仏師や学僧が多く,美術の一中心となった。《鳥獣戯画》《華厳縁起》,明恵上人樹上座禅像をはじめ,書画典籍が多く残っている。また明恵が山内に植えた茶は〈本茶〉とよばれ,ほかは非茶とされた。寺内の石水院(国宝)は後鳥羽院の学問所と伝える住宅風の建物で,明恵再興時の唯一の遺構。付近は紅葉の名所として名高い。高山寺文書がある。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目右京[区]京都[市]古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)三尾地【び】荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高山寺」の解説

高山寺
こうざんじ

京都市右京区にある寺。栂尾(とがのお)山と号す。開創は未詳。鎌倉初期に文覚(もんがく)が神護寺の別院とした。1206年(建永元)後鳥羽上皇の命により明恵上人高弁が華厳宗の道場として再興。栄西から贈られた種子をもとに茶の栽培が行われた地として知られ,ここで産した茶は本茶とよばれ珍重された。30年(寛喜2)太政官符により四至(しいし)が定められ,絵図(重文)が製作された。室町時代には紅葉の名所として知られたが,のち兵火で多くの堂宇を失った。再興当時の建物としては国宝の石水院だけが現存。多数の典籍文書を蔵するほか,「明恵上人像」「鳥獣人物戯画」「華厳宗祖師絵伝」「仏眼仏母像」などの絵画はいずれも国宝。境内は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高山寺」の意味・わかりやすい解説

高山寺
こうざんじ

京都市右京区梅ヶ畑にある真言宗御室派の寺。山号は栂尾山 (とがのおざん) 。初めは華厳宗の寺院であった。明恵上人が,後鳥羽上皇から華厳興隆のためにこの寺を与えられたので有名。鳥羽僧正筆とも伝えられる『鳥獣人物戯画』 (国宝) その他の絵画,工芸品や,宋版などの古文書を多く所蔵する。寺のうしろの山には,栄西禅師がもたらした茶の種子を植えた日本最古の茶園があり,栂尾茶と呼ばれている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高山寺」の解説

高山寺
こうざんじ

京都市右京区にある真言宗御室 (おむろ) 派の寺
もと天台宗の度賀尾寺といったが廃絶し,1206年高弁明恵 (こうべんみようえ) が後鳥羽上皇の院宣を奉じて再興,高山寺と号し華厳宗興隆の道場とした。その後応仁の乱により荒廃したが,織田・豊臣氏によって復興された。寺内の石水院は国宝。その他『鳥獣戯画』『明恵上人像』(以上国宝)など文化財も多い。

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デジタル大辞泉プラス 「高山寺」の解説

高山寺

京都府京都市右京区にある寺院。真言宗系単立。山号は栂尾(とがのお)山。774年開創と伝わる。1206年、明恵(みょうえ)上人が再興し、華厳宗の道場として発展。石水院、鳥獣人物戯画、明恵上人像(いずれも国宝)など、多数の文化財を保有。境内は国指定史跡。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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事典・日本の観光資源 「高山寺」の解説

高山寺

(長野県上水内郡小川村)
信州のサンセットポイント100選」指定の観光名所。

高山寺

(長野県上水内郡小川村)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の高山寺の言及

【鎌倉時代美術】より

…醍醐寺《五大明王像》や和歌山蓮華三昧院《阿弥陀三尊像》には伝統色が濃いが,醍醐寺《閻魔天像》は彩色法や描線に新しい変化をあらわし,1191年(建久2)の東寺《十二天屛風》(宅磨勝賀作)にいたって宋風の顕著な線描主義が出現する。高山寺《仏眼仏母像》も新しい様式の代表作であるが,この高山寺が宋風摂取の一拠点であり,そこには水墨画の導入もありえたとする説も出されている。
[前期の絵画,彫刻]
 11世紀以来の浄土教の発展にともない数多くの来迎図が描かれ,これと関連して二河白道図や六道絵がつくられ,また垂迹(すいじやく)画が仏画から派生して盛行する。…

【明恵】より

… 明恵はかねてインド仏跡参拝を計画していたが,1203年(建仁3)春日明神の神託により断念,05年(元久2)にも再度渡印の計画を実行に移そうとして《天竺里程書(印度行程記)》を作成したが,急病のため念願を果たせなかった。06年(建永1)11月に後鳥羽院から栂尾の地を賜り,弟子義林房喜海などを伴って移り,《華厳経》の〈日出先照高山嶺〉より高山寺と称することにした。まず金堂を造り,運慶・湛慶により釈迦や四天王像などが造られ,その後諸堂が整備された。…

※「高山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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