貞慶(読み)ジョウケイ

デジタル大辞泉 「貞慶」の意味・読み・例文・類語

じょうけい〔ヂヤウケイ〕【貞慶】

[1155~1213]平安末期から鎌倉初期の法相ほっそう宗の僧。初め興福寺に入り、のち、海住山寺に住持した。戒律を厳守し、旧仏教の改革を提唱。法相宗の中興と称された。著「愚迷発心集」など。笠置上人解脱上人

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精選版 日本国語大辞典 「貞慶」の意味・読み・例文・類語

じょうけいヂャウケイ【貞慶】

  1. 平安末期~鎌倉初期の法相宗の学僧。藤原貞憲の子。号は解脱房。世に笠置上人という。勅諡は解脱上人。興福寺で出家。戒律に厳しく、維摩会・最勝会の講師となったが、三八歳(一説には二八歳)のとき山城笠置山に隠棲し、のち大和海住山寺に移った。著書に「唯識同学鈔」「愚迷発心集」など。久寿二~建暦三年(一一五五‐一二一三

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朝日日本歴史人物事典 「貞慶」の解説

貞慶

没年:建保1.2.3(1213.2.24)
生年:久寿2.5.21(1155.6.22)
鎌倉初期の法相宗の学僧。解脱房,貞慶已講,侍従公ともいう。法然の専修念仏停止を求めた『興福寺奏状』の筆者として有名。平治の乱(1159)で殺された後白河上皇近臣藤原通憲(信西)の孫,貞憲の子。叔父に安居院澄憲,興福寺別当覚憲,高野山明遍,東大寺別当・醍醐座主勝賢がいる。応保2(1162)年8歳で南都下向,永万1(1165)年11歳で剃髪。承安2(1172)年醍醐寺実運より虚空蔵菩薩求聞持法を受法。養和2(1182)年唯識義巻一奥書に興福寺沙門釈貞慶と署名。同年興福寺維摩会の研学竪義を勤めた。文治2(1186)年より維摩会・季御読経・最勝講,法勝寺や法成寺の法華八講などの講師・論義として活躍,九条兼実らに高く評価された。一方で早くも研学竪義の年の元旦に笠置寺(京都府相楽郡)のために大般若経書写を発願,翌年には同寺の弥勒磨崖仏の前で勧進沙門信長と協力して斎会を行った。以後,笠置寺興隆の勧進沙門たちのために多くの勧進状を執筆,大般若経完成の翌年の建久4(1193)年経典を納める般若台六角堂を建立するとともに同寺に隠棲。 笠置山は平安後期の末法思想の広がりのなかで弥勒信仰の聖地となり,鎌倉初期には大峰山,葛城山と結びついて修験の活動の場となっていた。貞慶が学僧である一方で早くからそうした所に信仰生活の場を設定していたことが,のちの隠棲につながったといえよう。この笠置時代はより自由な立場で活動したが,その間,法然の専修念仏が広がり,旧仏教との対立が深まる中,元久2(1205)年に『興福寺奏状』を起草し,朝廷の許可なくして「新宗を立つる誤り」「万善を妨ぐる誤り」などを批判内容として専修念仏の禁止を請うた。晩年は観音の補陀落浄土への往生を望み,承元2(1208)年,観音霊場海住山寺(京都府相楽郡加茂町)に移住。59歳で入滅した。<参考文献>『鎌倉旧仏教』(日本思想大系15巻)

(上田さち子)

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改訂新版 世界大百科事典 「貞慶」の意味・わかりやすい解説

貞慶 (じょうけい)
生没年:1155-1213(久寿2-建保1)

鎌倉初期の法相宗の僧。解脱上人と号する。藤原貞憲の子で,保元の乱の立役者信西の孫にあたる。1162年(応保2)8歳で南都に下向,11歳で出家して以来,82年(寿永1)28歳で維摩会の研学竪義,86年(文治2)32歳で維摩会講師を務めるなど,興福寺学侶としての栄達の道を進んだ。この間,九条兼実をはじめとする貴族帰依も得たが,92年(建久3)生涯の転機となる笠置寺への隠遁を行った。この笠置隠遁の理由についてはこれまでも諸説があげられているが,弥勒浄土とされた笠置寺を拠点として弥勒信仰を広めることで,顕密仏教改革派の立場から法然の浄土教学に対抗せんとしたことがその一つの理由であろう。1205年(元久2)の著述になる,法然を批判した《興福寺奏状》がある。08年(承元2)海住山寺に移り,観音信仰を修め,同時に戒律興行を図った。著書に《愚迷発心集》がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「貞慶」の意味・わかりやすい解説

貞慶
じょうけい
(1155―1213)

鎌倉初期の法相(ほっそう)宗の学僧。解脱房(げだつぼう)と号する。京都の人。藤原貞憲(ふじわらのさだのり)の子で藤原通憲(みちのり)の孫。南都仏教復興の先駆者である興福寺の覚憲(かくけん)(1131―1213。藤原通憲の子)に師事し、法相、戒律を学ぶ。若くして維摩会(ゆいまえ)、最勝会(さいしょうえ)の講師となったが、宗教界の堕落を憤り、笠置寺(かさぎでら)に隠遁(いんとん)し、弥勒(みろく)の兜率往生(とそつおうじょう)を願い求めて、戒律の再興を図った。1208年(承元2)海住山寺(かいじゅうせんじ)に移って学徒を指導し、「興福寺奏状」を起草し、法然(ほうねん)(源空)の専修念仏(せんじゅねんぶつ)を非難した。『唯識論同学鈔(ゆいしきろんどうがくしょう)』『心要鈔(しんようしょう)』『愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)』などの著書がある。建暦(けんりゃく)3年2月3日、59歳で没する。

[納冨常天 2017年8月21日]

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百科事典マイペディア 「貞慶」の意味・わかりやすい解説

貞慶【じょうけい】

鎌倉時代の法相宗中興の僧。解脱上人と号する。少納言入道信西(藤原通憲)の孫。興福寺の学侶として,研学豎義(りゅうぎ),維摩会(ゆいまえ)講師をつとめ,将来を嘱望された。熱烈な弥勒如来信仰を持ち,1193年39歳で笠置寺で隠棲生活に入る。この地を弥勒浄土として,竜華会を始行。1208年には木津川のやや下流に海住山寺を整備してその地に移った。法然の浄土教を批判した《興福寺奏状》や《愚迷発心集》の著がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「貞慶」の解説

貞慶
じょうけい

1155.5.21~1213.2.3

鎌倉前期の法相(ほっそう)宗の僧。京都生れ。号は解脱房(げだつぼう)。笠置(かさぎ)寺上人とよばれた。藤原通憲(信西(しんぜい))の孫で同貞憲の子。興福寺に入り叔父覚憲について法相・律などを学ぶ。1182年(寿永元)維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂げ,御斎会(ごさいえ)・季御読経(きのみどきょう)などの大会に奉仕し,学僧として将来を嘱望されたが,名聞をきらい93年(建久4)かねて弥勒信仰を媒介にして信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。以後般若台や十三重塔を建立して寺観を整える一方,竜華会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰を深めていったが,1208年(承元2)海住山寺に移住し観音信仰にも関心を示した。1205年(元久2)興福寺奏状を起草し,法然(ほうねん)の専修(せんじゅ)念仏を批判した。法相・律・弥勒関係や「愚迷発心集」など著書多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「貞慶」の解説

貞慶 じょうけい

1155-1213 平安後期-鎌倉時代の僧。
久寿2年5月21日生まれ。藤原通憲(みちのり)の孫。法相(ほっそう)宗。興福寺の覚憲に師事し,維摩会(ゆいまえ),最勝会などの講師をつとめる。建久4年笠置(かさぎ)寺に隠棲し,法然(ほうねん)の専修念仏を批判して奈良仏教の復興に尽力。承元(じょうげん)2年海住山寺を再興。笠置上人とよばれた。建暦(けんりゃく)3年2月3日死去。59歳。京都出身。号は解脱(げだつ)房。諡号(しごう)は解脱上人。著作に「愚迷発心集」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「貞慶」の解説

貞慶
じょうけい

1155〜1212
鎌倉初期の法相宗の僧。法相宗中興の祖
解脱 (げだつ) 上人という。初め興福寺に住したが,僧侶の腐敗堕落に憤慨し,山城(京都府)笠置山に隠棲,その後大和の海住山寺に移った。法然の浄土宗には批判的態度をとり,釈迦への復帰を訴え,南都戒律の復興につとめた。著書『儀観鈔』『愚迷発心集』など。

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367日誕生日大事典 「貞慶」の解説

貞慶 (じょうけい)

生年月日:1155年5月21日
平安時代後期;鎌倉時代前期の法相宗の学僧
1213年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の貞慶の言及

【大部荘】より

…重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。浄土寺浄土堂は94年10月上棟,97年8月に解脱(げだつ)上人貞慶(じようけい)を導師に迎えて落慶供養をしたもので,天竺様建築の遺構として有名,安置する本尊阿弥陀三尊像は快慶作,ともに国宝。東大寺大仏の再興が完成したのちも陳和卿は当荘を私領化して寺家と対立して解任された。…

【海住山寺】より

…開創は735年(天平7)東大寺良弁と伝える。1207年(承元1)解脱坊貞慶が笠置から移り中興した。現存する五重塔(国宝)は,14年(建保2)に塔内に仏舎利を安置した記録があるので,このころに完成したものとみられる。…

【興福寺奏状】より

…1205年(元久2)10月,興福寺僧綱大法師らが提出した,法然の専修念仏を批判した奏状。実際の起草者は南都の碩学として聞こえた貞慶(じようけい)である。〈新宗を立つる失(誤り)〉以下,法然の教義を9ヵ条にわたって批判しているが,その内容は,王法と仏法とがあいよりあう下で,顕密八宗は共存すべきであるとの正統主義の立場から,法然の専修性を国土を乱す異端として排撃するものである。…

【兜率天】より

…弥勒のもとに生まれその化導を受けようとする兜率往生の信仰は古く,阿弥陀仏の浄土への往生との優劣が争われたこともある。兜率往生は,日本では鎌倉時代,貞慶(じようけい),明恵(みようえ)らによって説かれ,〈兜率天曼荼羅〉などの制作もなされた。【定方 晟】。…

※「貞慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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