観音寺町(読み)かんのんじちよう

日本歴史地名大系 「観音寺町」の解説

観音寺町
かんのんじちよう

大手筋おおてすじ通の北に位置する南北に細長い縦町。「豊公伏見城ノ図」によれば、武家屋敷街で、南北に走る通りの東側に金森法印、西側北方に松平周防守、南方に松平下総守の屋敷があった。「京都府地誌」も、「文禄ノ頃、金森法印ノ邸地タリ。後チ観音寺ヲ建立ス。仍テ町名トス。街東、以前馬責場ノ称アリ」と記しており、金森法印長近の屋敷があり、東方は馬責場とよばれていたと伝える。しかし、この辺り一帯は、伏見城下町の重要な地域である武家屋敷街で、馬責場が置かれていたとは考えられない。


観音寺町
かんのんじまち

[現在地名]大津市観音寺

北保きたほ町の北西に連なる北国海道の両側町で、東方の町裏は琵琶湖に面する。船奉行芦浦あしうら観音寺(現草津市)が当町に屋敷を構えたので町名がある。文禄五年(一五九六)一〇月の山上村検地帳写(山上町共有文書)に「観音寺町」居住の名請人がみえ、高二八石余を入作している。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえる。船奉行芦浦観音寺の大津役宅があり、北保町にまたがる屋敷地の規模は南北が東側二七間四尺・西側二一間、東西が北側三六間四尺・南側四四間四尺(「観音寺由緒」芦浦観音寺文書)


観音寺町
かんのんじちよう

[現在地名]大和郡山市西観音寺町

郡山から奈良に至る街道に沿い懸造で発達した町で、街道の東側が観音寺村領、西側が九条くじよう村領であるが、観音寺町と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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