諫早郷(読み)いさはやごう

日本歴史地名大系 「諫早郷」の解説

諫早郷
いさはやごう

江戸時代の広域通称地名で、高来たかく郡・彼杵そのき郡にわたる。肥前佐賀藩の地方支配の行政区画という性格をもち、同藩親類同格の諫早家の知行地であったが、その範囲は時代により変化した。

〔諫早領〕

諫早氏の知行は諫早郷のほか肥前国藤津ふじつ郡などを含み、諫早領と通称された。諫早氏はもと肥前全域に勢力を伸張した龍造寺氏の一門であり、天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州仕置では龍造寺氏は肥前国七郡の安堵に限られるという国割となった。龍造寺家晴は帰京する秀吉を追って訴えたことから、西郷氏の本拠地であった伊佐早いさはやを与えられたという。しかし家晴が肥後の国衆らによる一揆を鎮圧する援軍に赴く間に西郷信尚が挙兵、伊佐早城を奪回した。このため龍造寺氏・鍋島氏・有馬氏らは小早川隆景らの指揮下で討伐に当たることを命じられ(同年一〇月一三日「豊臣秀吉朱印状」小早川家文書)、家晴は肥後から軍を返してまもなく伊佐早を回復することに成功している。なお信尚の蜂起には領内の宇木うき小野おの栄田えいだ白浜しらはま大田尾おおたお(現高来町)などの百姓らも呼応して各所の代官を襲ったという(西郷記)。同年七月に伊佐早に入るが、家晴は名を信重と改めている。同一八年秀吉は宗家の龍造寺政家を隠居させ、その子の藤八郎(高房)に家督をつがせるが、正月八日の豊臣秀吉朱印状(長崎県史)では佐賀領三〇万九千九〇二石のうち家晴の分として「たかくの郡」一万九千一八八石・田畑一千七五九町一反が記載されている。同年三月七日の豊臣秀吉朱印状(諫早家文書)では「たかく郡内伊佐早庄」一万四千八〇二石余・藤津郡内二千二〇五石余・彼杵郡内九九一石余・小城おぎ郡内四千五〇三石余の都合二万二千五〇二石余が家晴の領知となっている。朝鮮半島への出兵では実権を握っていた鍋島氏の軍勢にほかの龍造寺一門とともに属し、渡海している。龍造寺氏はこうしてその家臣団に組込まれ、諫早姓に改めさせられた。

鍋島氏の佐賀領では知行の分与がなされて御三家が成立、また御親類の四家が分れ、元禄一二年(一六九九)には龍造寺一門の四家が御親類同格と称されているが、諫早家はこの御親類同格であった。慶長国絵図では高来郡六万七千二三九石余のうち諫早領二万六千二三九石余で、田一千七一二町九反余・畠七八二町余、物成一万四千二二六石余・小物成四二〇石余。寛永五年(一六二八)の惣着到状(佐賀県立図書館蔵)では二万五千七四二石余、同一九年の分限帳では二万六千二〇〇石余・地米高一万四八〇石余で、高来郡・彼杵郡・藤津郡の三郡内とされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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