建築家。東京生まれ。建築家谷口吉郎(よしろう)の長男。1960年(昭和35)に慶応義塾大学工学部機械工学科を卒業、その後アメリカに渡り、1964年にハーバード大学GSD(大学院大学デザイン・コース)修了(建築学修士)。帰国後、1964年から東京大学工学部都市工学科丹下健三(たんげけんぞう)研究室に所属、その後丹下健三・都市・建築設計研究所に1972年まで勤務する。
1974年に計画・設計工房を設立し主宰する。1979年より谷口吉郎建築設計研究所(現、谷口建築設計研究所)の所長となる。また、カリフォルニア大学ロサンゼルス校建築学科講師(1972~1973)、ハーバード大学建築学科客員講師(1978、1987)、東京大学工学部建築学科非常勤講師(1981~1983)、東京工業大学建築学科非常勤講師(1983~1984)などを務める。
金沢市立図書館(1978)は谷口が40歳のとき、父、吉郎の監修の下に設計を手がけた、事実上のデビュー作である。その後谷口は資生堂アート・ハウス(1978、静岡県。日本建築学会賞)、土門拳(どもんけん)記念館(1983、山形県。吉田五十八(いそや)賞、日本芸術院賞)と、公共性と記念性の高い建築を立て続けに手がけ、流行や自己主張には流されない確固とした空間とシンプルな構成をもった、良質のモダニズム建築の可能性を披露した。
しかしながら谷口は保守的なモダニズム建築を目ざしてはいなかった。東京都葛西(かさい)臨海水族園(1989。毎日芸術賞)では海に向かって明るく開く表現、丸亀市猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)現代美術館(1991。村野藤吾(むらのとうご)賞)では環境と美術館のあり方など、多様な環境に対する巧みな対応を表現するのである。東京国立博物館法隆寺宝物館(1999)の列柱など、谷口におけるモダニズム建築の表現は、シンプルなボリュームの建築と周囲の環境を対比させるという操作に絞り込むのだが、いずれの建築においても独自の環境を生み出しているのである。
このような効果は、建築内外の空間のボリューム、ダイナミズム、光の取り入れかた、内外の細心なディテールや収まりなど、冒険的な構造や装置の表現に頼らない、建築本来の表現と確かな技によって得られている。
日本アイ・ビー・エム幕張(まくはり)テクニカルセンター(千葉県)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、丸亀市立図書館(いずれも1991)や豊田市美術館(1995)ではアメリカのランドスケープ・デザイナー、ピーター・ウォーカーと協同した。一方、東京国立博物館法隆寺宝物館は前庭とピクチャレスク(絵画的)な対応をみせ、日本的モダニズムの再発見を目ざしている。
そのほかのおもな作品として、秋田市立中央図書館明徳(めいとく)館(1978)、ホテル安比(あっぴ)グランド(1985、岩手県)、慶応義塾幼稚舎新体育館(1987、東京都)、長野県信濃美術館東山魁夷(ひがしやまかいい)館(1990)、酒田市国体記念体育館(1991)、慶応義塾湘南藤沢中等部・高等部(1992、神奈川県)、葛西臨海公園展望広場レストハウス(東京都)、豊田市茶室(いずれも1995)、つくば市民交流センター(1996、茨城県)、慶応義塾幼稚舎新館21(2001、東京都)などがある。2004年(平成16)11月、ニューヨーク近代美術館(MoMA(モマ))が谷口の設計によりリニューアル・オープンした。2008年日本芸術院会員、2021年(令和3)文化功労者。
[鈴木 明]
『『谷口吉生建築作品集』(1996・淡交社)』
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...