日本歴史地名大系 「豊田庄」の解説
豊田庄
とよたのしよう
現
当庄の成立について触れた永治二年(一一四二)三月二五日の越後国留守所牒(東大寺文書)によれば、東大寺領の
この東大寺と国衙の対立は、何度かの論争を経て東大寺の勝利に終わったらしい。
豊田庄
といたのしよう
庄内に
なお文明一四年(一四八二)・明応四年(一四九五)・同九年の各年の大野庄年貢算用状(文明一四年のものは鹿王院文書、他は天龍寺文書)には除分として「豊田江代」がみえ、文明一四年には一貫二五〇文、明応四年・同九年には一貫四〇〇文が計上され、ほかに「豊田庄新水代」も下行されており、当庄下流域の
豊田庄
とよだのしよう
- 熊本県:下益城郡
- 豊田庄
現
安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(国立公文書館蔵山科家古文書)にみえ、次いで「玉葉」元暦二年(一一八五)九月二五日条によると、源頼朝が内乱当初に実情を知らずに九条兼実領の伊豆国
豊田庄
とよだのしよう
豊田庄
とよだのしよう
豊田庄
とよだのしよう
東大寺領荘園。文応元年(一二六〇)の顕胤奉書、東大寺年預請文(東大寺文書)に「豊田新口」がみえ文和二年(一三五三)の東大寺領大和国散在田地并抑留交名事(日本地名学研究所蔵文書)の受戒会料所に「一所十市郡豊田庄、十市八郎コレヲヽサウ」とあり、同寺受戒会料所であった。所在は現豊田町と考えられる。十市八郎は興福寺大乗院方国民十市氏内の武士であろう。その侵害の状況がうかがえる。
一方、応永三四年(一四二七)の一乗院昭円講師反銭納帳(天理図書館保井文庫)の十市郡に「豊田庄十丁三反小」とあるのは興福寺一乗院領荘園である。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)の「松南院負所田地」の康正二年(一四五六)の検帳には「一反塔本 豊田ノ左近次郎」「二反タカクロ一石二斗 トヨタノ東ウラニアリ」とあり、豊田町小字トノモト・
豊田庄
とよたのしよう
豊田庄
とよだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報