豊田庄(読み)とよたのしよう

日本歴史地名大系 「豊田庄」の解説

豊田庄
とよたのしよう

豊浦とようら町を中心に笹神ささかみ村、新発田しばた市などに展開していた奈良東大寺領庄園。長承四年(一一三五)の立券状・絵図・庁宣のあったことが、安元元年(一一七五)八月七日付の東大寺領庄庄文書請文(早稲田大学所蔵文書)などに記されており、成立は長承四年であろう。桓武平氏諸流系図(山形大学所蔵中条家文書)には城家成に「豊田二郎」という注記を付すので、あるいは当庄の成立には城氏が関与したとも思われる。

当庄の成立について触れた永治二年(一一四二)三月二五日の越後国留守所牒(東大寺文書)によれば、東大寺領の頸城くびき石井いしい庄・古志こし土井どい庄の計三〇〇町が荒廃し、その復旧を命ずる宣旨が出されたが、前国司が両庄は要地であるとして収公し、加地かじ郷を立替えて豊田庄を設定したと述べている。保延七年(一一四一)五月三日の越後国留守所下文(東南院文書)では、蒲原郡加治郷司に対し「東大寺御領豊田庄本免田拾伍町」をもとのように勘免せよと命じている。前出永治二年の留守所牒では、速やかに豊田庄三〇〇町を引渡すようにという東大寺からの牒に対し、調べてみると本来東大寺に与えられるのは「高田保内散在坪々田拾伍町」だけであるはずなのに、前国司は豊田の見作田すべてを東大寺領としてしまったとしている。また今の国司から本来のかたちに戻すようにと指示されているので、往古よりの一五町を引渡すことで了承してほしいと東大寺に返事をしている。

この東大寺と国衙の対立は、何度かの論争を経て東大寺の勝利に終わったらしい。


豊田庄
といたのしよう

庄内に桜田さくやだ村・長田ながた村・二口ふたくち村・若宮わかみや村などがあり、これらの村々を含む犀川下流右岸一帯に比定される。「天文日記」には「豊田七村」との表記がみえ(天文六年五月一五日条)、天文年間(一五三二―五五)頃には七村で構成されていたと思われる。なお近世には付近一帯は戸板といた郷の通称でよばれている(「加賀志徴」など)。正元元年(一二五九)頃と推定される七月一〇日付後嵯峨上皇院宣(関戸守彦氏蔵文書)に「徳長寿院領加賀国豊田庄」とあり、鳥羽上皇御願寺得長寿とくちようじゆ(現京都市左京区)を本家とする庄園であった。しかし、その後当庄の知行所職は分割錯綜したと思われ、京都北野社(田二町)・甘露寺家(二口村)妙光みようこう(現京都市右京区、長田村・桜田村領家職)・山城神護じんご(豊田村地頭職)などの領有が確認される。

なお文明一四年(一四八二)・明応四年(一四九五)・同九年の各年の大野庄年貢算用状(文明一四年のものは鹿王院文書、他は天龍寺文書)には除分として「豊田江代」がみえ、文明一四年には一貫二五〇文、明応四年・同九年には一貫四〇〇文が計上され、ほかに「豊田庄新水代」も下行されており、当庄下流域の大野おおの庄から用水の礼銭が支払われていた。また「天文日記」天文一一年八月一四日条には摂津石山本願寺の御堂当番に上番した直参門徒「前慶覚寺下」の慶専に「在所豊田」との注記がある。


豊田庄
とよだのしよう

城南じようなん町の東南部および現豊野とよの村北部一帯を中心とする(一部現上益城郡甲佐町西端と現松橋町の東部に及ぶか)地域にあった王家領の荘園で、中世文書には宮河・安見やすみ田馬とうま・山方山崎・下嶽・古閑こがなどの地名がみえる。「事蹟通考」は領村一九として、沈目しずめ塚原つかわら藤山ふじやま尾窪おくぼ鰐瀬わにぜ陳内じんない土鹿野はしかの(現城南町、旧豊田村)、安見・巣林すばやし糸石いといし山崎やまさき(現豊野村)中山なかやま三箇さんが(現甲佐町)古保山こおやま曲野まがの大野おおの松橋まつばせ萩尾はぎお浦河内うらかわち(現松橋町)をあげているが、現松橋町所属の各地はもとは宇土うと郡であり、豊田庄内であったかは疑問である。

安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(国立公文書館蔵山科家古文書)にみえ、次いで「玉葉」元暦二年(一一八五)九月二五日条によると、源頼朝が内乱当初に実情を知らずに九条兼実領の伊豆国馬宮まみや庄を走湯山そうとうさん(伊豆山)権現に寄進したことを詫び、代りに八条院領豊田庄を預けようとしたが、兼実は「件所自女院被給頼朝者、今馬宮庄代令進之条、理可然、若頼朝給預所職許者、下官為女院御庄預所之条、太以可見苦」といって拒否している。


豊田庄
とよだのしよう

現川越町豊田付近にあった中世の荘園。「和名抄」の「豊田郷」の荘となったものという。荘域については「北勢古志」が豊田・豊田一色とよだいつしき福崎ふくさき高松たかまつ川北かわきた松寺まつでら蒔田まいた(現四日市市)かき(現朝日町)を豊田郷の地とするのが参考となる。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条の公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状に「豊田庄地頭加藤太光員」と出る。


豊田庄
とよだのしよう

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条にみえる下総国内の年貢未済荘園の一つに「按察使家領豊田庄号松岡庄」とあり、松岡まつおか庄とも称したと考えられる。松岡庄は「吉記」承安四年(一一七四)三月一四日条に「下総国松岡庄訴申常陸国下津真庄下司広幹乱行事」とみえ、京都の蓮華王院領。いずれも一二世紀後半には立荘されていたといえる。松岡庄と豊田庄を同一荘園とは断言できないが、豊田は現石下いしげ町豊田・本豊田もととよだ一帯に、松岡は現下妻二本紀にほんぎの松岡付近に比定され、両者はともに古代の豊田郡に属した。


豊田庄
とよだのしよう

東大寺領荘園。文応元年(一二六〇)の顕胤奉書、東大寺年預請文(東大寺文書)に「豊田新口」がみえ文和二年(一三五三)の東大寺領大和国散在田地并抑留交名事(日本地名学研究所蔵文書)の受戒会料所に「一所十市郡豊田庄、十市八郎コレヲヽサウ」とあり、同寺受戒会料所であった。所在は現豊田町と考えられる。十市八郎は興福寺大乗院方国民十市氏内の武士であろう。その侵害の状況がうかがえる。

一方、応永三四年(一四二七)の一乗院昭円講師反銭納帳(天理図書館保井文庫)の十市郡に「豊田庄十丁三反小」とあるのは興福寺一乗院領荘園である。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)の「松南院負所田地」の康正二年(一四五六)の検帳には「一反塔本 豊田ノ左近次郎」「二反タカクロ一石二斗 トヨタノ東ウラニアリ」とあり、豊田町小字トノモト・たかゴロに興福寺松南しようなん院の負所田もあったことがうかがえる。


豊田庄
とよたのしよう

遺称地・推定地ともに不明であるが、明治二二年(一八八九)現奈義町中央部の豊沢とよさわ広岡ひろおかなど七ヵ村が合併し、豊田村が成立。あるいは同村域一帯に比定されるか。文和二年(一三五三)一〇月の京都東山の光明こうみよう寺雑掌の寛勝言上状(紀氏系図裏文書)によると、豊田東庄内為広跡田畠・所職を勘解由小路経尹(延慶三年出家)が同寺に寄進、三宅盛久が動乱のなかで押妨をしていた。


豊田庄
とよだのしよう

近世の豊田四ヵ村、豊田本郷とよだほんごう村・宮下みやした村・小峯こみね村・平等寺びようどうじ村であるとされ(風土記稿)、現在の豊田本郷・豊田平等寺・豊田宮下とよだみやした豊田小嶺とよだこみね南豊田みなみとよだ東豊田ひがしとよだ付近に広がるか。

「相模国豊田庄」にあった大庭景義の父景宗の墳墓が群盗によって盗掘されたという「吾妻鏡」文治四年(一一八八)一一月二七日条の記事が荘名の初見である。源頼朝の挙兵に従った武士のなかにこの大庭景義と並んで当庄の名を名乗る「豊田五郎景俊」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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