赤井城跡
あかいじようあと
滑川と佐田川の合流点北側、太尾山の中腹、標高約一六〇メートル、比高約五〇メートルの地にある。佐田氏代々の居城で、同じく同氏の居城であった東方の青山城と対峙する。菩提寺城ともいい、周辺に菩提寺・城・古城などの字名が残っていることから、おおよそ城郭の範囲を知ることができる。明応七年(一四九八)一〇月二日大友軍が佐田庄に乱入した際、大内方であった佐田氏は「菩提寺」に立籠り防戦、同月一三日に佐田泰景は「飯田山・佐田山」の所々の陣等で奮戦している(永正二年七月日「佐田泰景軍忠状」佐田文書)。佐田氏は菩提寺を城郭に利用し、これを母体として本格的な城郭を築造したのであろう。
赤井城跡
あかいじようあと
赤井川に張出した標高約四四メートルの小丘を中心にした中世城跡。「古城考」によれば、天文一六年(一五四七)木山城城主の木山惟久(紹宅)が築城して移り住んだが、天正一三年(一五八五)九月一九日に島津勢に攻められて落城した。小丘陵には「本丸」の字名が残り、最高所は碗を伏せたような形をしており、城跡の中心地と思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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