当初は平安時代の公家の邸宅で従者である侍の詰める所,伺候する所。寝殿の主屋の周囲の廊の部分をいうこともあり,主殿に付属するものを内侍(うちさむらい),邸内に別にあるものを遠侍(とおざむらい)という。藤原道長の《御堂関白記》長和4年(1015)に,政所,侍所という場所の名称がすでに見える。この侍の詰所から転じて,家人(けにん)(従者)たる侍の組織,機構の意となった。
例えば1150年(久安6)近衛天皇女御の藤原多子家では,正四位の別当,正六位の侍所長のほか,五・六位の侍数名が任ぜられ,女御家侍所牒(ちよう)を発行して能登国から侍所用途料の布を徴収している。また1129年(大治4)鳥羽天皇皇子の本仁親王家では侍始めの儀式を行い,別当と10名の衛門尉・兵衛尉級の〈侍〉が列している。79年(治承3)九条良通家には2名の侍所司(職事(しきじ))と17名の侍がおり,86年(文治2)九条兼実家では侍所別当3名,所司2名の名が知られる。このように后妃,親王,摂関級公家等の家に侍所と称する機構が設けられ,その機能は警衛を中心としたものと思われ,雑仕という下級職員もあった。なお建武新政期の鎌倉将軍府,陸奥将軍府にも在地武士を登用した侍所が設置されているが,これは鎌倉幕府の侍所の系譜を引くものとみるべきである。
1180年源頼朝は鎌倉に本拠を定めると和田義盛を侍所別当に任じ,やがて梶原景時を所司とするが,その最初の儀式が当時の全御家人を列席させ頼朝に伺候させる形式であったことからわかるように,幕府の侍所は,名称は公家の家政機構から継受したうえで,御家人統制機関として出発した。したがって侍所別当の地位は政治的に重要であり,梶原景時が一時偽って和田義盛の別当職を奪って専横があった。和田氏滅亡後は北条義時がこの地位につき,政所,侍所両方の別当を兼職することで,北条氏の執権としての地位が確立した。北条氏は侍所に自己の家人を送り込んでいたが,北条時頼が執権を辞任して後任に一族を立てたものの,実権は掌握しつづけた。それ以降,北条氏得宗(当主)と執権の地位が分離すると,侍所別当の地位には執権がつくが,侍所の実権は頭人(とうにん)に移った。頭人には御内(みうち)人と呼ばれる得宗被官が任ぜられ,末期には御内筆頭である内管領がこれに任じ,得宗に直結して侍所を掌握した。こうして侍所構成員は得宗被官が実権を有したが,検断沙汰等の実務に当たるのは奉行人と呼ばれる一般御家人中の吏僚で,外様であった。侍所の機能は当初御家人統制を主とし,御家人を招集した際,着到をつかさどり,将軍随兵の編成を扱い,戦陣の軍奉行(いくさぶぎよう)に任じた。また,大番役などの軍事的奉仕に関する命令,治安維持に関する指令等は,侍所を通じて守護,御家人に伝達されたと推測される。さらに侍所は当初から鎌倉市中の検断に当たったが,犯人の捜査・逮捕・処刑等に携わるのであり,また一般の刑事訴訟についても,その実務,手続に携わってはいるが,判決を与えるという意味での刑事訴訟を管掌したのではない。しかし14世紀初頭からは検断沙汰を管轄し,終局判決を与えた。一方各国守護も検断権を有するが,少なくも御家人を一方当事者とする場合は侍所が管掌した。六波羅探題にも侍所があり,頭人には探題の被官が任ぜられた。
室町幕府は鎌倉幕府の諸制度を踏襲したが,足利尊氏が鎌倉で反後醍醐天皇の挙兵をした1335年(建武2)末に早くも侍所を置き,有力家人の高師泰を長とした。室町幕府では長官は頭人または単に侍所と呼ばれ,所司代,開闔(かいこう),奉行人(寄人(よりうど)),公人(くにん)朝夕人(ちようじやくにん)等で構成された。その出発点は御家人統制機関であり,とくに最初期には直接軍陣統轄を任とし,幕府が京都に開かれてからは京都市中の検断権を行使した。南北朝期の頭人は三浦・佐々木・土岐・佐竹・山名・赤松等の外様大名,細川・畠山・今川・斯波・一色等の足利一門,高・仁木等の足利被官が任ぜられ,幕府内の政争に連動して交替するが,応永(1394-1428)初年からほぼ山名,京極(佐々木),赤松,一色のいわゆる四職(ししき)家に固定する。応仁の乱前約25年は京極氏が独占し,乱後は赤松氏がしばらく任ぜられるが,その被官浦上氏が所司代として実質的に活動する。応仁の乱までは,侍所頭人は将軍家御料国である山城の守護を兼任する場合が多い。所司代は次官で頭人自身の家人である。奉行人は前代からの武家吏僚で外様であり,筆頭を開闔と称し,訴訟実務等を指揮し,頭人欠員でも組織は維持されている。公人朝夕人は下級職員で幕府の段銭で給与が与えられるが,各種の座とも関係があった。南北朝期末に管領制が成立すると,御家人統制権は管領に吸収され,侍所はもっぱら京都市中治安維持機構となるが,その段階では検非違使の機能を吸収し終わっている。侍所はまた南北朝期には刑事裁判を管掌するが,京都市中ではそれが一般庶民に及び,諸国では御家人を一方当事者とする場合で,後者は守護の報告を受訴の要件としたかと思われる。室町幕府の訴訟制度解説書《武政軌範》は,侍所沙汰として前代の検断沙汰に相当する項目を列挙するが,全国的に実効があったかどうか疑わしい。幕府刑事裁判権は14~15世紀の間に守護に移行していく。鎌倉(関東)公方の下にも侍所があり,奉行人もいるが,活動の実態はいまだ明らかでない。
執筆者:羽下 徳彦
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1本来は,平安時代の摂関家などの邸宅での侍の詰所で,やがて家人である侍の組織の称となった。内裏の殿上に相当する場。摂関家では,11世紀に政所と並ぶ主要家政機関となり,主従関係の維持,従者の統制の機能をもった。寝殿の外側の廊(侍廊)におかれ,職員には,別当・侍・所司などがあった。親王家や大臣などの家にも設けられた。
2鎌倉・室町両幕府において家人の統制および検察・断罪(検断)を職務とする機関。鎌倉幕府では1180年(治承4)和田義盛を長官である別当に任じたことに始まる。次官である所司(しょし)の初代は梶原景時。政所・問注所とともに幕府の3大重要機関だったが,御家人を統率するこの機関が3機関中最も早く創設された。1213年(建保元)和田義盛を滅ぼした執権北条義時はみずから侍所別当を兼ね,以後執権の兼職となった。所司にも北条氏得宗(とくそう)家の被官が任じられ,鎌倉中期以降は得宗被官の最上位にある得宗家家令長崎氏がほぼ世襲した。侍所は守護を通じて全国の御家人を統率するとともに,鎌倉府内の検断も担った。所司の職権は絶大で,鎌倉末期に長崎氏は主家得宗をもしのぐ権勢をふるった。室町幕府では別当はおかれず,長官は所司または頭人(とうにん)とよばれ,初期には所司が山城国守護を兼ねて洛中の下地遵行(したじじゅんぎょう)権を行使。のちに洛中の検断がおもな任務となった。所司には細川・畠山・今川・一色など足利一門,山名・京極・六角・土岐など有力守護,三浦・高・佐竹など将軍近臣が任じられたが,応永期以降,山名・赤松・一色・京極の4家交替となり,四職(ししき)といわれた。
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「さぶらいどころ」ともいう。平安時代では親王・摂関・公卿(くぎょう)家に仕えて家務をつかさどった家人(けにん)らの伺候する所、また警護にあたった武士の詰所をいった。
鎌倉幕府の開創とともに政務機関となり、1180年(治承4)和田義盛(よしもり)を長官である別当(べっとう)に、梶原景時(かじわらかげとき)を次官である所司(しょし)に任じて、御家人(ごけにん)の統制と鎌倉市中の警備にあたらせた。1213年(建保1)和田氏一族が滅びてのちは、別当は北条氏執権の兼務、所司は北条氏の家臣である長崎氏の世襲するところとなった。13世紀後半に至り、検断沙汰(けんだんざた)とよばれる刑事裁判機能をもつようになり、その実務は頭人(とうにん)(所司)に率いられた奉行人(ぶぎょうにん)が担当した。
室町幕府も鎌倉幕府の制に倣い侍所を設けたが、別当は任じられず、所司が長官とされた。戦闘の際の戦功認定などを行う侍所所司は重職で、将軍の腹心の部将が任じられた。14世紀後半になると、それまで検非違使庁(けびいしちょう)が掌握していた京都市中の治安、警察、民事裁判などの権能を吸収し、一方、侍所所司が山城国守護職(やましろのくにしゅごしき)を兼務するのが例となって、侍所は京都の市政機関となった。15世紀になると、赤松(あかまつ)、京極(きょうごく)、一色(いっしき)、山名(やまな)の4家から交替で所司が任じられることになり、四職(ししき)とよばれた。
なお江戸時代には侍所所司に系譜を引く京都所司代が京都の警衛にあたった。
[桑山浩然]
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…また本所は放状(ほうじよう)(不入特権廃棄書)を提出して一円領に武家の入部を要請することもでき,東大寺領黒田荘などにその例がある。 鎌倉幕府では侍所・守護が検断の中心である。侍所は鎌倉市中の警察および全国的な刑事裁判を行う。…
…幕府の訴訟制度を解説した《沙汰未練書》によると,検断沙汰の対象は,謀叛,夜討,強盗,窃盗,山賊,海賊,殺害,刃傷,放火,打擲,蹂躙,大袋,昼強盗,路次狼藉,追落,女捕,刈田,刈畠であり(大袋・追落は強盗の一種,刈田・刈畠は他人の田畠の作物を強奪する行為),おおむね現在の刑事事件に相当する。 検断沙汰を扱う機関は関東では侍所で,訴人が訴状を侍所へ提出すると,侍所頭人が銘を加えて(訴状の端裏に年月日と訴人名を記す)担当奉行に送る。京都では六波羅探題(九州を除き,美濃・尾張以西を管轄する)の検断方があたり,検断方頭人が銘を加えて奉行に送る。…
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[中世]
幕府侍所頭人(所司)の代官。所司代は鎌倉時代には知られていないが,南北朝期になると1343年(興国4∥康永2)に都筑(つづき)入道(頭人細川顕氏),1363年(正平18∥貞治2)に若宮左衛門尉(頭人京極高秀)などの名がみえ,侍所の命をうけて洛中の謀叛人や放火殺害人の追捕に当たっている。…
…敷地の南半には大きな池を掘るため,通常南には門がない。中門廊と築地の間に侍所(さむらいどころ),車宿(くるまやどり)などを,敷地の北部には雑舎を建てる。左右対称の殿舎配置が原則である(図1)。…
…また末の柱から校書殿(きようしよでん)の後に綱を張り鈴をつけ,蔵人が小舎人(ことねり)を呼ぶときに鳴らした。侍,侍所,殿上侍,上侍,雲上,雲路等の別称がある。また院の御所にも殿上の間があった。…
…両幕府の裁判を担当した引付方では,三方あるいは五方等のいくつかの部局で構成されており,その一方(部局)の長官が頭人で,部局を構成する引付衆,奉行人を統率して裁判を指揮した。御家人の指揮や検断(警察裁判)を担当した侍所では,鎌倉幕府においては長官たる別当の腹心として事実上指揮・検断権を行使したのが頭人で,室町幕府においては別当が置かれなかったため,頭人が長官として侍所を管轄した。将軍の家政機関としての政所や文書・記録の保管にかかわる問注所の執事は,室町幕府では頭人とも呼ばれ,長官として政所を管轄している。…
※「侍所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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