赤生津村(読み)あこうづむら

日本歴史地名大系 「赤生津村」の解説

赤生津村
あこうづむら

[現在地名]豊里町赤生津

登米郡の南端はさま川・旧北上川の合流点北側の低湿地帯にある。東は鴇波ときなみ御岳堂みたけどう、西は遠田とおだ小里おさと長泥ながどろ(現涌谷町)、南は北上川、北は桜岡さくらおか久寿田くすだ(現米山町)に接する。長根浦ながねうら貝塚・沼崎ぬまさき貝塚・加々巻かがまき遺跡などの縄文遺跡、またたけさわ鳥越とりごえ保手ほて杢沢もくざわ蕪木かぶきなど奈良・平安時代の遺跡が残り、古くから人が居住した。中世の様子は不明であるが、北側の丘陵麓から開けたと思われる。愛宕神社跡にはもと嘉暦三年(一三二八)の板碑があったが、現在は長根神明社に移された。沼崎山には経塚が残る。中世の館跡として月輪つきのわ館・久寿田館・まえ館・赤生津館・赤生津要害館が残る。年代・館主などについてはつまびらかでないが、月輪館は葛西家臣月輪六郎・七郎兄弟の居館といわれる。菩提寺と伝える香林こうりん寺の山門は月輪館城門を移建したもので、室町時代後期のものとされる(豊里町史)。平屋建、桁行五・一五メートル、梁間三・二一五メートル、屋根は切妻造の桟瓦葺、県指定文化財。

現名取市にある真言宗智山派新宮しんぐう寺に所蔵される一切経の奥書に、元亨四年(一三二四)「赤宇曾本郷薬師寺」に施入と記されるものが二例あるが、赤宇曾が赤生津である確証はない。寛永六年(一六二九)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に「一四拾三貫七百八拾弐文 同あかうつ村」とあり、白石(ママ)部太輔(宗貞)に与えられている。白石氏は一門登米伊達氏のことである。

赤生津村
あこうづむら

[現在地名]前沢町生母せいぼ

北上川の左岸、母体もたい村の南に位置し、磐井いわい郡所属。北上川対岸は目呂木もくろぎ村、東は田河津たこうづ(現東磐井郡東山町)束稲たばしね山麓にあるため丘陵・起伏が多く、へび石・かさ石・つづき石・座禅ざぜん石などの名石が多い。寛文三年(一六六三)の入会地争論文書(鈴木文書)に「東山の内田河津村・赤生津村・母体村(中略)、右三ケ村は前代より下伊沢之内に御座候」とあり、天正一九年(一五九一)豊臣秀吉の奥郡仕置に伴う郡の再編によって当地は磐井郡になったとみられるが、同一五年三月一一日の葛西晴信知行宛行状写(赤荻阿部文書)には「岩井郡之内赤生津村」とみえ、安倍外記介に当村の五千刈が宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android