赤穴庄(読み)あかなのしよう

日本歴史地名大系 「赤穴庄」の解説

赤穴庄
あかなのしよう

現赤来町の南部に所在した庄園で、赤穴松尾あかなまつお庄ともよばれた。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)には七つの別宮と並んで赤穴別宮がみえ当地に山城石清水いわしみず八幡宮の末社が勧請され、その周辺の庄園化がなされていたことがわかる。その成立は平浜ひらはま別宮(現松江市)の例に準じて一一世紀末までさかのぼると推定される。文永八年(一二七一)の田積は五〇町二反六〇歩で、地頭は赤穴太郎であった(同年一一月日杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳)。赤穴氏は石清水八幡宮から現地に派遣された下司紀氏で、正安三年(一三〇一)九月日の出雲赤穴別宮安居頭役注進状(榊葉集)によると、寿永元年(一一八二)の下司は紀宗実である。また嘉暦元年(一三二六)八月一二日の赤穴八幡宮神像胎内銘札には紀季実の名がみえ、この一族が源平争乱や承久の乱の影響を受けることなく赤穴庄を支配したことがわかる。

鎌倉後期になると、北条得宗家の勢力出雲国に浸透してくるが、赤穴氏の場合も例外ではなく、紀季実は鎌倉へ逃れようとした六波羅探題一行や隠岐国守護佐々木清高父子と行動を共にし、彼らが自害した近江国番場ばんば宿(現滋賀県米原町)出家逐電してしまった。その後赤穴庄は季実の嫡子が川を挟んで東方(惣領分)を、弟が西方を分割して支配したが、まもなく兄弟間の所領をめぐる対立が生れた。その際兄側は優位に立つため、隣接する石見国佐波さわ(現邑智町)の佐波実連と結び、惣領分を実連の次男常連に譲った。以上の経過は永正二年(一五〇五)七月一四日の赤穴郡連置文(閥閲録)に詳しい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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