日本大百科全書(ニッポニカ) 「足立信頭」の意味・わかりやすい解説
足立信頭(あだちしんとう)
あだちしんとう
(1769―1845)
江戸後期の暦術家。大坂の医者北谷琳筑(りんちく)の子。通称左内、字(あざな)は子秀、渓隣(けいりん)と号した。1783年(天明3)養父で大坂鉄砲方の足立正長の家督を相続した。麻田剛立(あさだごうりゅう)の門に入り暦術を学び、寛政(かんせい)の改暦に高橋至時(たかはしよしとき)の手付下役として参画。1809年(文化6)4月暦学御用で出府、1835年(天保6)天文方に昇任、1841年改暦の命を受け、天保(てんぽう)の改暦に従事した。『寛政暦書』『同続録』『新法暦書』『新巧暦書』『新修五星法』などを渋川景佑(しぶかわかげすけ)と協力して編集した。1813年(文化10)松前藩に出張しロシア語を習得、1835年には『魯西亜語辞書(ろしあごじしょ)』を著したほか、たびたびロシア人との通詞(つうじ)の任を果たした。浅草暦局官舎で没し、墓碑は東京都杉並区堀ノ内の宗延寺にある。
[渡辺敏夫]