高橋至時(読み)タカハシヨシトキ

デジタル大辞泉 「高橋至時」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐よしとき【高橋至時】

[1764~1804]江戸中期の天文学者。大坂の人。号、東岡。通称、作左衛門麻田剛立あさだごうりゅう師事。幕府天文方として寛政の改暦事業に成功。編訳「ラランデ暦書管見」。

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精選版 日本国語大辞典 「高橋至時」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐よしとき【高橋至時】

  1. 江戸後期の天文学者。大坂の人。通称作左衛門。号は東岡。景保の父。寛政改暦の議がおこると、幕府の天文方となり、寛政暦を完成させた。著書「ラランデ暦書管見」。明和元~文化元年(一七六四‐一八〇四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高橋至時」の意味・わかりやすい解説

高橋至時
たかはしよしとき
(1764―1804)

江戸中期の天文学者。寛政(かんせい)の改暦で主役を務めた。大坂に生まれ、通称作左衛門、字(あざな)は子春、号は東岡または梅軒。聡明(そうめい)にして、数理に精密、推歩(すいほ)の技に長じ、家資窮迫の間にあって公務の余暇をもって研鑽(けんさん)し、その才を伸ばした。麻田剛立(ごうりゅう)に入門、当時日本で希有(けう)の珍籍暦象考成後編』を入手し、研鑽するに及んで、比肩する者のないほどの実力をもつに至った。1795年(寛政7)改暦の業に召されて天文方となり、1797年その大任を果たした。改暦後は惑星の研究観測に従事し、『新修五星法』を著し、1803年(享和3)『ラランデ天文書』のオランダ語訳書を入手すると病身を押してその訳解に従ったが、『暦書管見』11冊、表8冊を残して、翌年41歳で没した。浅草源空寺(東京都台東(たいとう)区上野七丁目)に葬る。弟子の伊能忠敬(いのうただたか)に日本全土測量の大事業の端緒を開いた。『新考日食三法』をはじめ交食に関するもの、『増修消長法』『気朔(きさく)簡法』など暦学に関する多くの著述がある。

[渡辺敏夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「高橋至時」の意味・わかりやすい解説

高橋至時 (たかはしよしとき)
生没年:1764-1804(明和1-文化1)

至時は字を子春といい,梅軒,あるいは東岡と号した。15歳のとき,大坂定番井上筑後守組同心であった父の跡を継いだ。早くより算学,暦学を好み,後々まで相ともに学び励まし合った間(はざま)重富と相前後して麻田剛立の門に入った。24歳のころである。剛立,重富とともに至時は当時もっとも進んだ暦学書である《暦象考成後編》を研究し,麻田派の傑出した学力は改暦に強い関心をもっていた幕府要路の耳に達した。寛政7年(1795)3月,暦学御用のため出府を命ぜられ江戸浅草の暦局に入り,同年11月天文方に登用され新規に100俵五人扶持を加えられた。従来の30俵二人扶持に比べたいへんな出世であった。翌8年改暦御用をおおせつけられ先任天文方の吉田秀升,山路徳風とともに上京し,1年あまりで新暦法を完成した。この暦法は至時と,至時とともに出府した間重富の2人の学力によってまとめられたもので,同10年より施行され寛政暦と呼ばれた。寛政暦の完成後は日月食の計算法,五星法(惑星の運動論)と里差(経度差)の研究に意を用い,里差については伊能忠敬の全国測量の発足,支援に力をいたした。1803年(享和3),フランス人J.ラランド著の《天文書》のオランダ訳本を若年寄堀田摂津守から貸与され一覧した至時は,これこそ長年求めていたものと,このラランド研究に寝食を忘れて没頭し病身の命を縮め,翌年1月没した。著書には《海中舟道考》《諳厄利亜(アンゲリア)暦考》《ラランデ暦書管見》その他がある。
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朝日日本歴史人物事典 「高橋至時」の解説

高橋至時

没年:文化1.1.5(1804.2.15)
生年:明和1.11.30(1764.12.22)
江戸中期の暦算家。東岡または梅軒と号した。作左衛門はその通称。大坂の定番同心の子に生まれ,家は微禄で生活は苦しかったが算数暦算を好み,麻田剛立の門下に入って,その一の弟子となった。中国の暦法は中身は耶蘇会士の西洋天文学によっていることは,将軍徳川吉宗のときにわかっていたが,宝暦の改暦にそれを盛り込むことに失敗した。寛政7(1795)年に改暦の議がおこり,その仕事は麻田剛立学派に委嘱され,結局高橋至時が代表責任者となり,天文方に任命され,俸禄100俵を賜った。門下の盟友間重富の協力で寛政改暦は成功したが,彼には次の目標があった。 それは,漢訳天文書ではなく,西洋語で書かれた天文学を直接輸入しようというテーマである。それには蘭学の知識が必要である。そこで独学でフランスの天文家ラランドの蘭訳書にとりかかった。のめり込みすぎて肺患がひどくなり,41歳で浅草天文台に没した。残されたノート『ラランデ暦書管見』をみると,蘭語はあまり強くなかったが,専門的なことは理解できた。ただニュートン力学には歯が立たなかった。しかし,伝統的な暦算天文学では日月の運行が中心であったのを,惑星の運行にも興味を寄せている点では,西洋の天文学者の感覚に近づいた最初の天文家であった。高齢(51歳)で入門してきた弟子の伊能忠敬の学力が落ちる点にハラハラしながら,指導して全国測量を完成させた。

(中山茂)

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百科事典マイペディア 「高橋至時」の意味・わかりやすい解説

高橋至時【たかはしよしとき】

江戸時代の天文学者。字は子春,号は東岡,あるいは梅軒。大坂に生まれ,麻田剛立(あさだごうりゅう)に天文・暦学を学び,その推挙により1795年江戸へ出て幕府の天文方となり,寛政の改暦に当たった(1798年実施)。日・月食,惑星運動等に関し数十冊の著書があり,特にフランスのラランドの《天文書》のオランダ訳を約半年で大部分訳了,《ラランデ暦書管見》を著した(1803年)。高橋景保(かげやす)はその子。
→関連項目伊能忠敬渋川景佑高橋景保間重富

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高橋至時」の意味・わかりやすい解説

高橋至時
たかはしよしとき

[生]明和1(1764).11. 大坂
[没]享和4(1804).1.5. 江戸
江戸時代中期の天文暦学者。通称は作左衛門。号は梅軒。大坂の定番同心の家職を継ぎ,天明年間 (1781~88) の末頃から麻田剛立に天文暦学を学んだ。寛政7 (95) 年幕府天文方に登用され,同門の友人間 (はざま) 重富とともに『暦象考成後編』を研究。同9年2~8月の毎日,太陽赤道,経度,高度などを実測し,改暦事業に従い,翌年寛政暦を完成。享和3 (1803) 年 J.ラランドの暦書を入手,肺患をおかして『ラランデ暦書管見』 11冊を編述し,門人伊能忠敬の日本地理測量事業の端を開いた。浅草の暦局官舎で没した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高橋至時」の解説

高橋至時
たかはしよしとき

1764.11.30~1804.1.5

江戸後期の天文学者。字は子春,号は東岡・梅軒,通称作左衛門。大坂定番同心の長男。高橋景保(かげやす)の父。1778年(安永7)父の跡を継ぐ。算学を松岡能一に学び,87年(天明7)麻田剛立(ごうりゅう)に入門し,間(はざま)重富とともに天文学を学ぶ。97年(寛政9)寛政暦を完成する。伊能忠敬を指導して日本全国測量事業を始めた。フランス人ラランド著の天文書を調査し,「ラランデ暦書管見」を残す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋至時」の解説

高橋至時 たかはし-よしとき

1764-1804 江戸時代中期-後期の天文家。
明和元年11月30日生まれ。麻田剛立(ごうりゅう)に天文暦算をまなぶ。幕府天文方として間重富(はざま-しげとみ)とともに寛政暦を完成。弟子に伊能忠敬(いのう-ただたか)がいる。享和4年1月5日死去。41歳。大坂出身。字(あざな)は子春。通称は作左衛門。号は東岡,梅軒。著作に「ラランデ暦書管見」「新修五星法及図説」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高橋至時」の解説

高橋至時
たかはしよしとき

1764〜1804
江戸後期の天文学者
景保の父。大坂の人。麻田剛立に天文・暦学を学び,各種観測器機を製作。1795年幕府天文方となり間重富 (はざましげとみ) と寛政暦をつくり,伊能忠敬に西洋暦を教え,その地理測量を支援した。

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367日誕生日大事典 「高橋至時」の解説

高橋至時 (たかはしよしとき)

生年月日:1764年11月30日
江戸時代中期;後期の暦算家
1804年没

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世界大百科事典(旧版)内の高橋至時の言及

【寛政暦】より

…没後の1755年(宝暦5)に採用された宝暦暦は,貞享暦の定数を少し変えただけの暦法で,施行後まもなくから幕府は次の改暦を考えねばならなかった。やがて大坂の麻田一門の名声が高くなると,幕府は95年麻田門下の俊秀高橋至時を天文方に登用し,同門の間(はざま)重富に協力させて改暦に当たらせた。至時は西洋天文学の漢訳本である《暦象考成後編》を参酌し,97年に早くも新暦案を完成,《暦法新書》8巻とし,土御門泰栄に献じた。…

※「高橋至時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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