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高橋至時 たかはしよしとき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高橋至時
たかはしよしとき

[生]明和1(1764).11. 大坂
[没]享和4(1804).1.5. 江戸
江戸時代中期の天文暦学者。通称は作左衛門。号は梅軒。大坂の定番同心の家職を継ぎ,天明年間 (1781~88) の末頃から麻田剛立に天文暦学を学んだ。寛政7 (95) 年幕府天文方に登用され,同門の友人間 (はざま) 重富とともに『暦象考成後編』を研究。同9年2~8月の毎日,太陽赤道,経度,高度などを実測し,改暦事業に従い,翌年寛政暦を完成。享和3 (1803) 年 J.ラランドの暦書を入手,肺患をおかして『ラランデ暦書管見』 11冊を編述し,門人伊能忠敬の日本地理測量事業の端を開いた。浅草の暦局官舎で没した。

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デジタル大辞泉の解説

たかはし‐よしとき【高橋至時】

[1764~1804]江戸中期の天文学者。大坂の人。号、東岡。通称、作左衛門。麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事。幕府天文方として寛政の改暦事業に成功。編訳「ラランデ暦書管見」。

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百科事典マイペディアの解説

高橋至時【たかはしよしとき】

江戸時代の天文学者。字は子春,号は東岡,あるいは梅軒。大坂に生まれ,麻田剛立(あさだごうりゅう)に天文・暦学を学び,その推挙により1795年江戸へ出て幕府の天文方となり,寛政の改暦に当たった(1798年実施)。
→関連項目伊能忠敬渋川景佑高橋景保間重富

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高橋至時 たかはし-よしとき

1764-1804 江戸時代中期-後期の天文家。
明和元年11月30日生まれ。麻田剛立(ごうりゅう)に天文暦算をまなぶ。幕府天文方として間重富(はざま-しげとみ)とともに寛政暦を完成。弟子に伊能忠敬(いのう-ただたか)がいる。享和4年1月5日死去。41歳。大坂出身。字(あざな)は子春。通称は作左衛門。号は東岡,梅軒。著作に「ラランデ暦書管見」「新修五星法及図説」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

高橋至時

没年:文化1.1.5(1804.2.15)
生年:明和1.11.30(1764.12.22)
江戸中期の暦算家。東岡または梅軒と号した。作左衛門はその通称。大坂の定番同心の子に生まれ,家は微禄で生活は苦しかったが算数暦算を好み,麻田剛立の門下に入って,その一の弟子となった。中国の暦法は中身は耶蘇会士の西洋天文学によっていることは,将軍徳川吉宗のときにわかっていたが,宝暦の改暦にそれを盛り込むことに失敗した。寛政7(1795)年に改暦の議がおこり,その仕事は麻田剛立学派に委嘱され,結局高橋至時が代表責任者となり,天文方に任命され,俸禄100俵を賜った。門下の盟友間重富の協力で寛政改暦は成功したが,彼には次の目標があった。 それは,漢訳天文書ではなく,西洋語で書かれた天文学を直接輸入しようというテーマである。それには蘭学の知識が必要である。そこで独学でフランスの天文家ラランドの蘭訳書にとりかかった。のめり込みすぎて肺患がひどくなり,41歳で浅草天文台に没した。残されたノート『ラランデ暦書管見』をみると,蘭語はあまり強くなかったが,専門的なことは理解できた。ただニュートン力学には歯が立たなかった。しかし,伝統的な暦算天文学では日月の運行が中心であったのを,惑星の運行にも興味を寄せている点では,西洋の天文学者の感覚に近づいた最初の天文家であった。高齢(51歳)で入門してきた弟子の伊能忠敬の学力が落ちる点にハラハラしながら,指導して全国測量を完成させた。

(中山茂)

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江戸・東京人物辞典の解説

高橋至時

1764〜1804(明和元年〜文化元年)【天文学者】寛政暦法を完成。 伊能忠敬に測量技術を教えた。天文学者。大坂定番同心の子。麻田剛立に天文・暦学を学ぶ。1795年、江戸に行き幕府天文方となり、寛政暦を完成した。その後、フランス人ラランド著の天文書から西洋天文学の優秀さを知り、命を削るようにして、その研究書『ラランデ暦書管見』を残した。なお伊能忠敬は、至時に天文・暦学を学んだ。

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世界大百科事典 第2版の解説

たかはしよしとき【高橋至時】

1764‐1804(明和1‐文化1)
至時は字を子春といい,梅軒,あるいは東岡と号した。15歳のとき,大坂定番井上筑後守組同心であった父の跡を継いだ。早くより算学,暦学を好み,後々まで相ともに学び励まし合った間(はざま)重富と相前後して麻田剛立の門に入った。24歳のころである。剛立,重富とともに至時は当時もっとも進んだ暦学書である《暦象考成後編》を研究し,麻田派の傑出した学力は改暦に強い関心をもっていた幕府要路の耳に達した。寛政7年(1795)3月,暦学御用のため出府を命ぜられ江戸浅草の暦局に入り,同年11月天文方に登用され新規に100俵五人扶持を加えられた。

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大辞林 第三版の解説

たかはしよしとき【高橋至時】

1764~1804) 江戸後期の天文学者・暦学者。大坂の人。麻田剛立に天文・暦学を学び、中国の暦象考成、麻田流消長法を取り入れて寛政暦を完成。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高橋至時
たかはしよしとき
(1764―1804)

江戸中期の天文学者。寛政(かんせい)の改暦で主役を務めた。大坂に生まれ、通称作左衛門、字(あざな)は子春、号は東岡または梅軒。聡明(そうめい)にして、数理に精密、推歩(すいほ)の技に長じ、家資窮迫の間にあって公務の余暇をもって研鑽(けんさん)し、その才を伸ばした。麻田剛立(ごうりゅう)に入門、当時日本で希有(けう)の珍籍『暦象考成後編』を入手し、研鑽するに及んで、比肩する者のないほどの実力をもつに至った。1795年(寛政7)改暦の業に召されて天文方となり、1797年その大任を果たした。改暦後は惑星の研究観測に従事し、『新修五星法』を著し、1803年(享和3)『ラランデ天文書』のオランダ語訳書を入手すると病身を押してその訳解に従ったが、『暦書管見』11冊、表8冊を残して、翌年41歳で没した。浅草源空寺(東京都台東(たいとう)区上野七丁目)に葬る。弟子の伊能忠敬(いのうただたか)に日本全土測量の大事業の端緒を開いた。『新考日食三法』をはじめ交食に関するもの、『増修消長法』『気朔(きさく)簡法』など暦学に関する多くの著述がある。[渡辺敏夫]

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367日誕生日大事典の解説

高橋至時 (たかはしよしとき)

生年月日:1764年11月30日
江戸時代中期;後期の暦算家
1804年没

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世界大百科事典内の高橋至時の言及

【寛政暦】より

…没後の1755年(宝暦5)に採用された宝暦暦は,貞享暦の定数を少し変えただけの暦法で,施行後まもなくから幕府は次の改暦を考えねばならなかった。やがて大坂の麻田一門の名声が高くなると,幕府は95年麻田門下の俊秀高橋至時を天文方に登用し,同門の間(はざま)重富に協力させて改暦に当たらせた。至時は西洋天文学の漢訳本である《暦象考成後編》を参酌し,97年に早くも新暦案を完成,《暦法新書》8巻とし,土御門泰栄に献じた。…

※「高橋至時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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