コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

麻田剛立 あさだごうりゅう

7件 の用語解説(麻田剛立の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

麻田剛立
あさだごうりゅう

[生]享保19(1734).2.6. 杵築
[没]寛政11(1799).5.22. 大坂
江戸時代中期の蘭方医,天文学者。本名綾部妥彰。豊後杵築藩の儒者,綾部安正の次男に生れ,藩医にあげられたが,明和6 (1769) 年頃に脱藩,姓を麻田と改めて医で生計を立てながら星暦を研究した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

あさだ‐ごうりゅう〔‐ガウリフ〕【麻田剛立】

[1734~1799]江戸中期の天文学者。豊後(ぶんご)の人。初め医学を学び、のち大坂で暦学を研究。ケプラーの法則にも通じた。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

麻田剛立【あさだごうりゅう】

天文・暦学者。豊後杵築(きつき)藩の儒者綾部絅斎(あやべけいさい)の四男。医学を学ぶかたわら天文・暦学を独学,1763年9月の日食を予言して世に知られ,1770年ごろ脱藩し大坂に行き,医師をしながら天文観測と理論に没頭。
→関連項目山片蟠桃

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

麻田剛立 あさだ-ごうりゅう

1734-1799 江戸時代中期-後期の天文家,医師。
享保(きょうほう)19年2月6日生まれ。綾部絅斎(あやべ-けいさい)の4男。豊後(ぶんご)(大分県)杵築(きつき)藩主松平親貞(ちかさだ)の侍医となったが勉学のため脱藩し,大坂にでて暦学を研究。私塾先事館を創設し,高橋至時(よしとき),間(はざま)重富らをそだてた。「侍中法(時中法)」とよぶ暦をつくって名をあげ,算学や動物解剖でも知られる。寛政11年5月22日死去。66歳。名は妥彰(やすあき)。号は正庵,璋庵。著作に「消長法」など。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

あさだごうりゅう【麻田剛立】

1734‐99(享保19‐寛政11)
豊後国杵築藩の儒医綾部安正の四男,名を妥彰(やすあき)といい正庵と号した。幼いときから天文に関心をもちその神童ぶりについての逸話も多く残っている。医術をよくし,召されて藩医の末席にあったとき,藩主の死(ひんし)の急病を自らくふうした薬を用いて救い,そのためかえって先輩医師らの嫉視(しつし)を買い,ついに脱藩して大坂に赴いた。39歳のころである。大坂では医術で生計を立て,やがて先事館という私塾を開き高橋至時,間重富,足立信頭山片蟠桃,西村太仲,坂正永ら多数の優秀な弟子を育て麻田派天学の名を天下にあげた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

あさだごうりゅう【麻田剛立】

1734~1799) 江戸中期の天文学者・医者。豊後の人。本名、綾部妥彰。杵築藩の侍医であったが脱藩して大坂に移り、西洋天文学の知識を取り入れ独特の暦学をたてる。高橋至時よしとき・間重富はざましげとみはその弟子。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

麻田剛立
あさだごうりゅう
(1734―1799)

江戸中期の天文暦学者。豊後(ぶんご)国(大分県)杵築(きつき)の儒者綾部安正(あやべやすまさ)(絅斎(けいさい))の四男に生まれる。名は妥彰(やすあき)、字(あざな)は剛立。璋庵(しょうあん)(正庵)と号した。幼年より天文を好み、独学でその道に通じ、かたわら医術を修め、1767年(明和4)藩侯(はんこう)の侍医となった。しかし天文暦学に専心できないので、辞職を願うこと三たびに及んだが許されず、1772年(安永1)大坂へ脱藩、姓を麻田と改め、医を生業としながら暦学の研究に没頭した。天明年間(1781~1789)の初め、大坂本町四丁目に居を構え、先事館と称し子弟を教育した。自ら測器をくふう改良、日夜観測に従事し、家暦『時中法』を作製した。1786年(天明6)正月朔(ついたち)の日食が、官暦よりも『時中法』による推算のほうがよく適中し、剛立の名声をますますあげることになった。1795年(寛政7)幕府で改暦の議があり、剛立を起用しようとしたが応ぜず、弟子の高橋至時(たかはしよしとき)、間重富(はざましげとみ)を推挙した。1798年初めごろから老衰がしだいに加わり、翌寛政(かんせい)11年5月22日没した。66歳。浄春寺(大阪市天王寺区夕陽ヶ丘)に葬。門下からは高橋、間をはじめ西村太冲(にしむらたちゅう)(1767―1835)、足立信頭(あだちしんとう)ら著名の士が輩出した。剛立自身の書いたものは残っていないが、弟子たちの遺著によってその業績を知ることができる。『時中法』のもととなった『実験録推歩法(じっけんろくすいほほう)』『消長法』はことに有名で、そのほか『弧矢弦論解(こしげんろんかい)』『以月景推日食法(げっけいをもってにっしょくをおすほう)』『五星距地之奇法(ごせいきょちのきほう)』などがある。剛立には子がなく、長兄妥胤(やすたね)(1720―1782)の第3子直(なおし)(立達(りゅうたつ)。1771―1827)を養嗣子とした。直は望遠鏡の玉磨きで優れた腕をもっていた。[渡辺敏夫]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の麻田剛立の言及

【授時暦】より

…授時暦は江戸期の日本でさかんに研究され,建部賢弘の《授時暦諺解》が有名である。渋川春海は授時暦によって貞享暦(1685)を作り,麻田剛立は消長法を一般化させた。【橋本 敬造】。…

※「麻田剛立」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

麻田剛立の関連キーワード木下俊忠儒医杵築[市]大分県杵築市杵築綾部絅斎綾部富阪綾部道弘物集高世《豊後国誌》《豊後国風土記》

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone