江戸末期の天文暦学者。天文方渋川家9代を継ぎ、天保(てんぽう)改暦の主役をつとめた。天文方高橋至時(よしとき)の次男。大坂に生まれ、初め善助、1808年(文化5)天文方渋川富五郎(1771―1821)の養嗣子(ようしし)となり、翌年家督相続し天文方となり助左衛門と称した。号は滄洲(そうしゅう)。1838年(天保9)10月観測の掌務をとることを命ぜられ、翌年職務に忠実勤勉なるをもって御鉄砲御箪笥(おたんす)奉行格に昇進、1841年九段坂天文台を管理して台長を務めた。その性質はきちょうめんで、暦学上多くの業績を残した。兄の高橋景保(かげやす)を助けて、またその亡きあとは引き継いで、父至時の『ラランデ暦書』の訳解を遂行し、『新巧暦書』40冊、『新修五星法』10冊を完成、幕府に献上した。前者は1841年幕府の命による天保改暦の基をなすものである。『霊憲候簿』『暦学聞見録』『西暦聞見録』『三統暦管見』『新修彗星(すいせい)法』『新法暦書数理撰述(せんじゅつ)』『寛政(かんせい)暦書』『同続録』その他、自著また共著が多くある。墓碑によると安政(あんせい)3年6月20日没、享年70歳とあるが、『天文方代々記』では安政4年3月隠居したことになっている。品川東海寺に葬る。
[渡辺敏夫]
江戸後期の暦学者。天文方高橋至時の次男として生まれ,幼名は善助。幼いときより天文暦学を学び,1805年(文化2)には兄景保の配下にあった伊能忠敬に従って西国測量を行い,09年天文方渋川富五郎正陽(まさてる)の養子となって家督を受け天文方を命ぜられ,以後,善助を助左衛門と改めた。36年(天保7)に父の遺業であるラランデの天文書の訳業をおえ,《新巧暦書》40巻および《新修五星法》10巻を幕府に上呈した。寛政改暦をほとんど独力で成し遂げた父至時の死後は他の天文方に理解する能力がなかったため,寛政暦法の詳しい暦理の撰述(せんじゆつ)は進捗(しんちよく)せず,その施行後40年も経た39年幕府は景佑に命じて督修させた。44年,景佑が中心となって《寛政暦書》35巻,《寛政暦書続録》5巻が撰述され上呈された。この巻頭に〈暦学を為す者,数理に明らかならず候,測に精しからずして能く至る有るものあらざるなり〉とみずから記している景佑は,ほかに類を見ない多くの著述を残している。多くの暦学書とともに測量術の《遠鏡町見手引草》,古い時刻制に関した《壺漏説》,日本で初めての本格的太陽暦である《万国普通暦》,あるいは観測記録である《霊憲候簿》など枚挙にいとまがないほどである。また景佑は驚くほどの勤勉さと綿密さによって零細な草稿,下書きの断片まで収集整理して後代に研究資料を残した功績は偉大である。父至時と間重富との往復書簡集《星学手簡》はその代表ということができよう。
執筆者:内田 正男
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…1844年(弘化1)に施行され72年(明治5)末まで29年間用いられた。作者は渋川景佑,足立信頭らである。景佑は信頭の協力を得て父高橋至時の遺業である《ラランデ暦書管見》の翻訳を完成した。…
※「渋川景佑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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