近松寺(読み)きんしようじ

日本歴史地名大系 「近松寺」の解説

近松寺
きんしようじ

[現在地名]唐津市西寺町

唐津市街地の北西、旧名護屋なごや道・長崎道の分岐点に位置する。瑞凰山と号し、本尊釈迦如来。「松浦記集成」に「臨済宗、南禅寺派、御朱印高百石、御朱印地伊岐佐村に有り、大閤秀吉公より賜。慶長四己亥年九月十六日開祖耳峯大和尚、大旦那寺沢志摩守広高公、公之遺物、一夜念仏丸の長刀、一上帯、一冠俗に云ふヲサ冠、一簑、一烏帽子、一草履、一足袋」と記す。

近松寺記によれば、天文一〇年(一五四一)頤賢碩鼎が明国より帰って聖福しようふく(現福岡市)にいたとき、松浦岸岳きしだけ城主波多三河守が満島山まんとうざんの西南地に近松・少林しようりんの二寺を建て、頤賢を開山とし山林を寄進した。天正二年(一五七四)兵火により炎上、そののち寺沢志摩守が頤賢の弟子耳峯に通辞を依頼する条件として両寺の再建を約し、文禄三年(一五九四)耳峯が唐津に移り両寺を再建、慶長七年(一六〇二)唐津城築城のとき現在地に移った。

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改訂新版 世界大百科事典 「近松寺」の意味・わかりやすい解説

近松寺 (こんしょうじ)

大津市にある天台宗寺門派の寺院。〈きんしょうじ〉とも呼ぶ。高観音(たかかんのん)と俗称され,千体仏で有名。もと園城寺(おんじようじ)五別所の一つ。天台密教の大成者安然(あんねん)がこの地に修行したのに始まると伝える。中世には園城寺に属し,園城寺の散所と推定される関寺在地などを支配した。1689年(元禄2)ころより,園城寺鎮守となった関蟬丸神社を管理するようになった。関蟬丸神社は音曲芸道の祖神とあがめられる蟬丸祭神とし,諸国の説教者(歌舞音曲などを行う雑芸人)を組織していたが,この説教者たちは園城寺の権威を背景に諸国巡業を行った。
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世界大百科事典(旧版)内の近松寺の言及

【近松寺】より

…大津市にある天台宗寺門派の寺院。〈きんしょうじ〉ともよぶ。高観音(たかかんのん)と俗称され,千体仏で有名。もと園城寺(おんじようじ)五別所の一つ。天台密教の大成者安然(あんねん)がこの地に修行したのに始まると伝える。中世には園城寺に属し,園城寺の散所と推定される関寺在地などを支配した。1689年(元禄2)ころより,園城寺鎮守となった関蟬丸神社を管理するようになった。関蟬丸神社は音曲芸道の祖神とあがめられる蟬丸を祭神とし,諸国の説教者(歌舞音曲などを行う雑芸人)を組織していたが,この説教者たちは園城寺の権威を背景に諸国巡業を行った。…

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