近松門左衛門(年譜)(読み)ちかまつもんざえもんねんぷ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「近松門左衛門(年譜)」の意味・わかりやすい解説

近松門左衛門(年譜)
ちかまつもんざえもんねんぷ

作品の年代は上演年月(特記以外は竹本座)を表す。

1653(承応2) 武士の家の二男として福井に生まれる。15~16歳のころ京に移住、公家の一条家に仕える
1671(寛文11) 山岡元隣(げんりん)編『宝蔵』に近松の句が載る
1672(寛文12) 一条恵観(えかん)没。主家を辞す
1677(延宝5) このころ宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃(じょうるり)作家となる
1680(延宝8) 加賀掾段物集『大竹集』(近松の存疑作所収)刊
1683(天和3) 9月『世継曽我(よつぎそが)』(京都・宇治座)
1684(貞享1) 竹本義太夫、大坂道頓堀に竹本座を創設
1685(貞享2) 2月『出世景清(しゅっせかげきよ)』
1686(貞享3) 7月『佐々木大鑑』(初めて「作者近松門左衛門」と署名)。このころ、都万太夫座の道具直しや講釈師の副業で生計をたてる
1693(元禄6) 3月、坂田藤十郎初演の歌舞伎(かぶき)『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』(京都・都座)
1697(元禄10) 歌舞伎『夕霧七年忌』(都座)
1699(元禄12) 1月、歌舞伎『傾城(けいせい)仏の原』(都座)
1703(元禄16) 5月『曽根崎(そねざき)心中』。7月、豊竹若太夫、豊竹座を創設
1705(宝永2) 竹本座の専属作者となる
1706(宝永3) 京都より大坂に移住
1707(宝永4) 2月『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』
1708(宝永5) 『傾城反魂香(はんごんこう)』
1711(正徳1) 3月『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』
1712(正徳2) 7月『嫗山姥(こもちやまんば)』
1714(正徳4) 9月、竹本筑後掾(ちくごのじょう)没。尼崎の広済寺再興、近松の旦那寺となる
1715(正徳5) 春『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』。11月『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』大当り(以降17か月興行)
1717(享保2) 8月『鑓(やり)の権三重帷子(ごんざかさねかたびら)』
1718(享保3) 1月『山崎与次兵衛寿(やまざきよじべえねびき)の門松(かどまつ)』。11月『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』
1719(享保4) 8月『平家女護島(へいけにょごのしま)』
1720(享保5) 12月『心中天網島(てんのあみじま)』
1721(享保6) 7月『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』。8月『信州川中島合戦
1722(享保7) 4月『心中宵庚申(よいごうしん)』
1723(享保8) 知人に体の衰えを訴える書状
1724(享保9) 1月絶筆『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』。11月上旬、辞世文を書き残す。11月22日没

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