日本大百科全書(ニッポニカ) 「心中天網島」の意味・わかりやすい解説
心中天網島
しんじゅうてんのあみじま
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。世話物。3段。近松門左衛門作。1720年(享保5)12月、大坂・竹本座初演。大坂郊外の網島大長寺(だいちょうじ)における情死事件を脚色したもの。上の巻(河庄(かわしょう))―天満(てんま)の紙屋治兵衛は女房おさんとの間に2人の子がありながら、曽根崎(そねざき)新地の遊女紀伊国屋小春(きのくにやこはる)と深くなじみ、心中の約束までする。思い悩んだおさんは、ひそかに小春へ夫と別れてくれと手紙で頼む。治兵衛の兄粉屋孫右衛門(こやまごえもん)も弟を案じ、侍に変装して小春に会うと、小春は手紙の主に義理をたてて別れたいという。立ち聞きした治兵衛は女の変心に激怒するが、兄に制せられ泣く泣く家に帰る。中の巻(紙治(かみじ)内)―10日後、治兵衛は小春が恋敵の太兵衛に身請けされるといううわさを聞き、男の面目がたたぬと無念がる。おさんは小春が死を覚悟したと察し、女同士の義理がすまなくなり、衣類すべてを入質して、夫に小春を請け出させようとするが、そこへきた父五左衛門はいちずに治兵衛の不行跡を怒り、無理におさんを連れ帰る。下の巻(大和屋(やまとや)・名残(なごり)の橋づくし)―治兵衛はあくる夜、廓(くるわ)を抜け出した小春と網島の大長寺で心中する。
心中事件は初演前々月の10月16日に起きたといわれ、これを聞いた作者が駕籠(かご)の中で想を練ったという逸話もあるほどだが、場面構成、人物描写ともに優れ、心中物の代表作、近松世話浄瑠璃の最高傑作とされる。ただし、舞台では、近松半二(はんじ)が改作した『心中紙屋治兵衛』(1778)における「河庄」と、半二の作をさらに増補した『天網島時雨炬燵(てんのあみじましぐれのこたつ)』(通称「時雨の炬燵」)が多く上演され、歌舞伎(かぶき)でもこの両作が「紙治」の俗称で親しまれてきた。「河庄」の治兵衛の演技は代表的な上方和事(かみがたわごと)で、3代に及ぶ中村鴈治郎(がんじろう)の当り芸。近年は近松の文学尊重の立場から、原作に近い形で上演される例も少なくない。
[松井俊諭]
映画
日本映画。1969年(昭和44)作品。表現社・日本アート・シアター・ギルド(ATG)提携作品。ATG配給。篠田正浩(しのだまさひろ)監督。原作は、篠田の大学の卒論テーマだった近松門左衛門の世話浄瑠璃。脚色は大阪育ちの詩人・小説家富岡多恵子(とみおかたえこ)、音楽は武満徹(たけみつとおる)と篠田自身。低予算を逆手にとった簡素かつ大胆な粟津潔(あわづきよし)(1929―2009)の美術、成島東一郎(なるしまとういちろう)(1925―1993)の鋭角的で適確な白黒画面が引き締める。上方言葉のテンポが語りのリズムをつくり、タイトル・バックの電話の会話、ガムランやトルコの笛、法華太鼓(ほっけたいこ)などさまざまな音や響きが渾然(こんぜん)一体となって、訴えかけてくる。紙屋治兵衛(中村吉右衛門)は、妻子ある身でありながら曽根崎新地の遊女・小春(岩下志麻(いわしたしま)、1941― )と心中することを約束する。さまざまな困難、妨害があるが、最後に二人は望みを遂げて心中する。華やかな小春と地味な妻おさんの二役を岩下が好演。全編にわたって遍在する黒子の見えざる手が、道行へと誘導する悪意を体現している。毎日映画コンクール音楽賞、キネマ旬報ベスト・テン第1位。
[坂尻昌平]
『森修・鳥越文蔵訳・校注『完訳日本の古典56 近松門左衛門集』(1984・小学館)』