造田村(読み)そうだむら

日本歴史地名大系 「造田村」の解説

造田村
そうだむら

[現在地名]琴南町造田

土器どき川両岸の盆地に立地する。土器川左岸内田の天川ないでんのあまがわ柞野くにぎの川が合流し、右岸備中地びつちゆうじで備中地川が合流する。土器川は造田と炭所西すみしよにし(現満濃町)との境界付近で、川幅が急に狭くなっているので洪水のときには造田盆地に水があふれ、昔から洪水の害を受けることが多かった。備中地に弥生時代の遺跡が確認され、柞野のまつぢ谷(標高七三〇メートル)の平坦部にある中寺なかでら廃寺は昭和五九年(一九八四)の遺跡確認調査で、塔の心礎付近から出土した五個の壺によって、平安時代末にさかのぼる寺院跡であることが再確認された。

元和六年(一六二〇)の高一三三石余(「そうだの名寄米もり帳」西村文書)、正保四年(一六四七)の高四二八石余(「内田造田内検地帳」同文書)、寛文三年(一六六三)の高七四一石余(「造田村土免定」同文書)、同一三年の高一千三八石余(「内田村田方検地帳」谷光文書)。文政九年(一八二六)の高八七〇石余、貢納は四口米五〇〇石余、夏成銀二千三六匁五分、浮役銀は林運上銀三九六匁、薪銀八六匁四分、興炭銀二四匁七分、真綿銀一五一匁四分、家数二一九(石居一五三・掘立六六)・人数九二五(男五〇一・女四二四)、本百姓一九八、半百姓六四、山伏三、僧侶・大工各二、御林守・刀指・社人・鍛冶猟師・馬医各一、酒株一があり、寺二、庵二、牛五七・馬四、池三八(「山分村々五人組帳調」同文書)。寛永国絵図では中通なかとお郷に属し、土器川右岸が造田、左岸が内田と、それぞれ独立した村のように書かれているが、高松藩領になってからは一村となっている。村名は内田・造田と並記(正保四年内検地帳)、造田村(寛文三年土免定)、内田村(寛文一三年田方検地帳)とまちまちになっているが、寛保以降は造田村に統一され、東村(造田免)・西村(内田免)とよんでいる。しかし村高は東・西別別に定められ、所蔵は東と西の二ヵ所に設けられ、蔵組頭以下の村役人も別々に任命され、貢租も別々に計算され、賦役は村高に案分されて負担した。組織を備えた二つの村が、同一の村名で一人の庄屋に支配されていたため、文化一〇年(一八一三)には村別れの騒動も起こったが、藩はこれを認めなかった(「年来実録」西村文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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