日本大百科全書(ニッポニカ) 「遵義会議」の意味・わかりやすい解説
遵義会議
じゅんぎかいぎ
長征途上の紅軍が1935年1月、貴州(きしゅう/コイチョウ)省遵義(じゅんぎ/ツンイー)で開いた中国共産党中央政治局拡大会議。江西(こうせい/チヤンシー)省瑞金(ずいきん/ロイチン)に「首都」を置いた中華ソビエト政府と紅軍は、王明(陳紹禹(ちんしょうう/チェンシャオユー))の指導する極左路線のもとで、国民党による第五次包囲攻撃を支えきれず、根拠地を撤収して西北への長征に出たが、途中でも多くの損害を受けた。紅軍が遵義を一時占領したとき、ここで政治局拡大会議を開き、周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)、朱徳(しゅとく/チュートー)らの強力な支持のもとに、従来の路線を批判し、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の方針の正しさを確認、実質的に中国共産党における毛沢東の指導的地位が確立された。これ以後、抗日民族統一戦線結成の方針が打ち出されたばかりでなく、長征にも変幻きわまりない遊撃戦法が取り入れられて、長征を成功に導いた。この会議は中国革命史上における重要な転機とされ、その会議場の跡は現在記念館として保存されている。
[安藤彦太郎]