出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1907~46
中国民国時代の政治家。建国前の中国共産党の指導者。浙江(せっこう)省無錫(むしゃく)の生まれ。字はロシア人にちなむ博古を名乗った。1925年共産党に入党,27年ソ連に留学。帰国後,陳紹禹(ちんしょうう)らとともに李立三(りりつさん)路線を批判して共産党の主導権を握る中心的人物となった。34年に長征に参加。しかし,35年の遵義(じゅんぎ)会議では路線問題によって総書記を解任された。以後『解放日報』の社長として活躍するが,46年重慶談判からの帰途に飛行機事故で死去した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…紅軍の兵力も最高30万に達した。しかしコミンテルンの意向を背景に正規戦を主張する王明(陳紹禹),博古(秦邦憲)ら留ソ派と対立して,毛沢東が軍の指導権を奪われたこと,蔣介石が第5次作戦でトーチカを築いてじり押しに包囲圏を縮める作戦をとったことによって,紅軍は34年10月瑞金を放棄して〈長征〉を余儀なくされた。 貴州,雲南,四川など11省を迂回した紅軍は35年10月第1陣の第1方面軍が陝西北部に到着,新たな根拠地をつくったが,総兵力は3万に減っていた。…
…1935年1月上旬から中旬にかけて約1週間続いた。会議では第3次極左路線(王明路線)の軍事的失敗が批判され,総書記秦邦憲を解任して張聞天を後任に選び,コミンテルン派遣の軍事顧問を指導から排除して毛沢東,周恩来,王稼祥の3人で構成する軍事指導小組を選出した。中国共産党における毛沢東路線確立の第一歩となった歴史的な会議である。…
※「秦邦憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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