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張聞天 ちょうぶんてんZhang Wen-tian

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

張聞天
ちょうぶんてん
Zhang Wen-tian

[生]光緒26(1900).江蘇,南匯
[没]1976.7.1. 江蘇,無錫
中国の政治家文学者筆名は洛。 1921年カリフォルニア大学に留学し,25年中国共産党に入党。 27年モスクワの孫逸仙大学に留学。 30年帰国して李立三路線に反対し,共産党中央農民部長,宣伝部長を歴任した。 33年江西ソビエト区に入り,中央委員会書記局書記,宣伝部長などをつとめ,34年中華ソビエト政府人民委員会主席,35年遵義会議総書記に選ばれた。 39年共産党中央委員会書記局第一書記を経て,45年七全大会で中央委員,政治局委員となり,51年第2代ソ連駐在大使,54年外交部副部長を兼任,55年同副部長専任 (1959退任) ,56年八全大会で中央委員,中央政治局委員候補に選ばれたが,59年盧山会議で右傾分子として批判された。さらに文化大革命時期に反党分子として再批判され監禁された。 79年名誉回復。長編小説『旅途』など多くの著作や翻訳がある。

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百科事典マイペディアの解説

張聞天【ちょうぶんてん】

中国の政治家,文学者。江蘇省の人。筆名は洛甫。米国とソ連に留学。中国共産党中央農民部長,組織部長,中央委員,政治局員などを歴任。中華人民共和国で駐ソ大使,外交部副部長となったが,1959年大躍進を批判して失脚し,解任される。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうぶんてん【張聞天 Zhāng Wén tiān】

1900‐76
中国の政治家。ソ連に留学ののち1930年王明,博古らと帰国,中国共産党政治局員となり,洛甫のペンネームで政治・文学の評論活動を行った。35年1月の遵義会議では毛沢東を支持して,総書記に選任された。国共内戦期には東北に派遣され,東北局常務委員,東北財経委員会副主任をつとめた。解放後は51年駐ソ大使,55年外交部副部長(次官)となったが,59年彭徳懐らとともに廬山会議で大躍進政策を批判して失脚。文化大革命期には反党分子として迫害されたが,78年名誉回復された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

張聞天
ちょうぶんてん / チェンウェンティエン
(1900―1976)

中国の政治家。上海(シャンハイ)南匯(なんかい)の人。1921年アメリカに留学し、1925年中国共産党に入党、1927年モスクワに留学。帰国後、同党宣伝部長、農民部長、組織部長を歴任。1933年江西ソビエト区へ入り、書記局総書記となり、1934年長征に参加。新中国成立後、駐ソ大使、外務部副部長となるが、のち解任された。文化大革命では批判され失脚したが、「四人組」打倒後名誉回復。文学研究会に属した文学者でもあった。[阿川修三]

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世界大百科事典内の張聞天の言及

【遵義会議】より

…1935年1月上旬から中旬にかけて約1週間続いた。会議では第3次極左路線(王明路線)の軍事的失敗が批判され,総書記秦邦憲を解任して張聞天を後任に選び,コミンテルン派遣の軍事顧問を指導から排除して毛沢東,周恩来,王稼祥の3人で構成する軍事指導小組を選出した。中国共産党における毛沢東路線確立の第一歩となった歴史的な会議である。…

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