鄧演達(読み)とうえんたつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鄧演達」の意味・わかりやすい解説

鄧演達
とうえんたつ / トンイエンター
(1895―1931)

中国、国民党左派の軍人政治家。字(あざな)は択生(たくせい)。広東(カントン)省恵陽県の人。保定軍官学校卒業。1920年孫文の組織した広東軍に参加。1923年第一師第三団長に昇進。1924年黄埔(こうほ)軍官学校教練部副主任。このころから中国共産党に接近し、北伐(ほくばつ)では国民革命軍総司令部政治部主任として活躍。1927年国民党中央政治委員会委員、農民部長などに選出され、農民運動支持し、蒋介石(しょうかいせき)、汪兆銘(おうちょうめい)らの反共路線と対立した。国共分裂後、モスクワはじめヨーロッパを遊歴。共産党の革命路線にも反対して、譚平山(たんへいざん)らと第三の道を追求した。1930年帰国。中国国民党臨時行動委員会第三党)を組織し、反蒋運動を進めたが、翌1931年8月逮捕され、11月銃殺された。

[石島紀之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鄧演達」の意味・わかりやすい解説

鄧演達
とうえんたつ
Deng Yan-da

[生]光緒21(1895).広東,恵陽
[没]1931.11.29. 南京近郊
中国の軍人,政治家。字は沢生。 1918年保定軍官学校卒業後,ソ連,ドイツで軍事学を学んだ。 24年黄埔軍官学校副校長となり,この頃から中国共産党に接近し,国民党左派の要人となった。北伐には国民革命軍総政治部主任として軍事,労農工作に従事し,27年軍事委員会委員となり,共産党との提携の維持を主張。国共合作の崩壊後は国民党から除名された。しかし,共産党の革命運動にも追随できず,第三党樹立を画策し,譚平山らと中華革命党結成。その後モスクワに行ったが受入れられず,ベルリンの第2インターナショナルの組織下に走り,中国国民党臨時行動委員会を結成した。 30年帰国し,南京,上海から福建方面にも進出してその勢力を拡大したが,翌年8月南京で国民政府に逮捕され,11月銃殺された。

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改訂新版 世界大百科事典 「鄧演達」の意味・わかりやすい解説

鄧演達 (とうえんたつ)
Dèng Yǎn dá
生没年:1895-1931

中国国民党左派の政治家。字は沢生。広東省恵陽県の人。孫文の護法運動に参加。第1次国共合作を支持推進し,武漢政府崩壊後は共産党と一致行動したため,国民党を除名された。のちソ連に赴き,1930年帰国後は中国国民党臨時行動委員会を組織して反蔣・非共産という第三の道をもとめようとした。しかし翌年蔣介石政権により逮捕,処刑された。
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