鄧茂七(読み)とうもしち(英語表記)Deng Mao-qi; Têng Mao-ch`i

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鄧茂七」の意味・わかりやすい解説

鄧茂七
とうもしち
Deng Mao-qi; Têng Mao-ch`i

[生]?
[没]正統14(1449)
中国,明の農民反乱首領。正統 13 (1448) 年衆に推されて福建反乱を起した。当時地方では貨幣経済が浸透し,商人 (不在地主) による大土地所有が発展していた。農民高額小作料を納めるほか,不在地主に代って租税徭役をも事実上負担したので,茂七はそれらの減税を要求して数十万の農民を指揮し,地主,政府軍と戦った。彼は翌年敗死したが,余党はその後も江西,広東方面で長く抵抗した。この乱は佃戸 (でんこ。小作農) による純粋な農民反乱として注目される。

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旺文社世界史事典 三訂版 「鄧茂七」の解説

鄧 茂七
とうもしち

?〜1449
明代に福建省で起こった農民蜂起の指導者
1448年,小作料・徭役 (ようえき) の減免を要求して挙兵し,一時その勢力は数十万に達した。彼は翌年戦死したが,闘争は長く続き,その結果,小作農の地位が向上した。この農民蜂起は,純粋な抗租反乱であり,中国特有の宗教的色彩をもたない点で注目される。

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世界大百科事典(旧版)内の鄧茂七の言及

【抗租】より

…以後15世紀前半までは,この種の記録もほとんど見られなくなることからすると,佃戸の側の経営基盤がなお弱く,地主による糧食貸与の慣行に見られるように地主とのあいだに保護被保護関係がなお強く存在し,抵抗の持続性は乏しかったと考えられる。 しかしながら15世紀中葉,福建で起こった鄧茂七の反乱においては,佃戸がみずから付加小作料の廃止という明確な具体的要求をかかげ,集団の力で地主にその承認を迫り,16世紀以降は抗租が持続的に強化,拡大されていく。小作制のもっとも発達した江南で,佃戸の側の意識的な滞納が一つの地域に一般化しつつある現象として記録されるようになるのは16世紀の20年代からである。…

【鄧茂七の乱】より

…中国の明代,1448年(正統13)から翌年にかけて約1年間,福建省沙県を中心に展開された農民反乱で,鄧茂七はその首謀者であった。当時,貨幣銀経済の浸透する中で,租税は銀納化されつつあり,木綿,甘藷,甘蔗などの商品作物生産が漸増しつつあった。…

※「鄧茂七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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