経営耕地のすべて,もしくはほとんどを借りている農家をいう。日本の統計上,小作農の定義には歴史的変遷がある。すでに徳川幕藩体制下に質入れなどの形で農民の土地所持の喪失と事実上の小作化が漸次進みつつあったが(〈小作〉という語は寛政期の《地方凡例録》にみられる),明治維新の地租改正によって,土地所有権が公認され,土地売買が自由になるなかで,明治期に農民の小作化と地主のもとへの土地所有権の集中が進んだ。1908年から40年に帝国農会の手でおこなわれた〈農事統計〉では,一応,経営耕地を地主から借り入れるものを小作農家とし,逆にそれを自分で所有するものを自作農家,一部が自作地,一部が小作地のものを自作兼小作農家(自小作農家)としたが,それは必ずしも厳密な規定ではなく,各地の通念で分類されることが多く,また,自小作農家には小作農家に近いものから逆に自作農家に近いものまで,雑多な性格のものが一括して含まれるといった難点があった。そこで農林省は,41年から自小作別農家の分類基準を明確かつ合理化し,経営耕地の1割以下を自己が所有するものを小作農家とし,逆に9割以上を自己が所有するものを自作農家,そしてかつての自小作農家をさらに細分して,経営耕地の5~9割を自己が所有するものを自作兼小作農家,1~5割を自己が所有するものを小作兼自作農家(小自作農家)と規定することとした。農林省による55年以降の自小作別農家分類も,41年の基準を踏襲している。
農地改革前の1941年には,小作農は総農家のほぼ3割を占め,多少とも耕地を借りている自小作や小自作農家まで含めると7割に達していた。小作農の5割は経営耕地面積50a未満層に,8割までが1ha未満層に含まれ,自作や自小作農家に比して零細経営に集中していた。これら小作農は地主から収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され,かつ地主の都合によって随時土地をとりあげられるなど耕作権(賃借権)がきわめて弱く,地主に債務を背負って人格的にも隷属的である場合が多かった。こういった貧しい小作農家から紡織工業の女工をはじめ,きわめて低賃金で,劣悪な労働条件に甘んじて働く労働者が多数出現した。小作農民にとって,小作料減免と耕作権強化,ひいては土地所有権取得による自作農への転化は切実な要求であり,この問題をめぐってはげしい小作争議,小作運動が展開された。
第2次大戦後の農地改革は,耕地の上に成立していた地主的土地所有を基本的に解体し,小作農を著減させ,逆に,圧倒的多数の農家を自作農ないし自小作農家に転化した。だが,農地改革後も,零細経営層を中心に小作農家が残ったのは,農地改革が在村地主に1haまでの貸付地保有を認めた結果であって,一部の小作農は農地改革後も不本意ながら小作農として残存した。
→小作制度 →自作農 →地主 →農地改革
執筆者:暉峻 衆三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
自らは土地をほとんどもたず土地所有者(地主)から借りて耕作し、小作料を支払う農民をいう。このような農民の姿は古代や中世などにもみられたが、小作という名称が一般的になるのは江戸中期以降のことに属し、永小作、質地(しっち)小作などの形態をとる。小作農が広範に形成されるのは明治維新後のことである。1873年(明治6)の地租改正は私的所有権を法認したが、古い小作慣行と高率現物小作料を継続したため、地主的土地所有への道を開くことになった。さらに1880年代の松方デフレが農民層分解を推し進める画期となり、農民の土地喪失による小作農化が広範に進行した。小作農の大多数は農業経営だけでは生活できず、婦女子や二、三男の出稼ぎ賃金に補充されて初めて生活が維持できた。こうして1900年代ごろまでには、高率高額小作料を出稼ぎ賃金(低賃金)によって補う小作農家が広範に出現したが、それは、日本資本主義の低賃金構造を支える形で発展した地主制のあり方に照応したものであった。1888年(明治21)には95万戸(全農家の20.6%)であった小作農家は、1908年(明治41)には149万戸(27.6%)にまで増加し、以後も大正中期まで漸増した。大正期以降、小作農家のなかからは、小商品生産への志向を強め、経営規模を拡大し土地所有への意欲を示して自小作農に前進するものが現れる。1920年(大正9)から30年(昭和5)にかけて自小作農は40.7%から42.4%へと増加し、逆に小作農が28.0%から26.4%へと減少する動きにそのことが示されているが、1941年に至っても小作農は27.7%存在し、地主制のもとで呻吟(しんぎん)する小作農の姿は、戦前には基本的に解消されなかった。小作農が大幅に減少し、自小作農あるいは自作農に転身していくのは戦後の農地改革においてである。1950年(昭和25)には小作農は5.1%にすぎなくなり、以後も減少傾向をたどっている。
[大門正克]
『中村政則著『近代日本地主制史研究』(1979・東京大学出版会)』▽『暉峻衆三著『日本農業問題の展開』上下(1970、84・東京大学出版会)』
…20世紀半ばの中国革命まで,地主佃戸(でんこ)制と呼ばれる小作制度の発達した華中・華南に広く行われた。一田両主制下の小作田では,小作農(佃戸,佃農)の耕作権が,地主(田主,業主)の土地所有権からの規制をいっさい受けることなく,独立して売買・入質することの可能な物的権利として確立されていた。この場合,地主の土地所有権と小作農の耕作権は1対をなして,田底と田面(江蘇省),田骨と田皮(江西省),大苗(だいびよう)と小苗(福建省),糧業と質業(広東省)などさまざまの地方的名称で呼ばれたが,なかでも田面は耕作権を表す代表的名辞となっている。…
…注意すべきことには,家産の男子による均分相続と,流通経済の発展によって土地所有の流動が意外に激しいこと,官僚身分がおおむね個人的なものだったことなどから,個々の大土地所有者が何世代にもわたってその経済力を保持するのが比較的困難であり,このことはさらに階層間の流動性とも結びついていた。
[農業経営と商工業]
他方人民の大多数を占める農民には,自作農と佃農(小作農)とがあり,初期においては,自作農育成策の影響もあって,前者の比率が比較的高く,中期以降には土地所有の集中が進行して,佃農の比率が増したと考えられる。それにはもちろん地域的な偏差があって,華北では他に比べて自作農の比率が高く,江南デルタ地帯では特に佃農の比率が高かった。…
※「小作農」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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