野井村(読み)のいむら

日本歴史地名大系 「野井村」の解説

野井村
のいむら

[現在地名]愛野町こう

現愛野町域の北東部を占め、北西は海に臨む。島原街道筋に有明町ありあけまち本町ほんまち舟津ふなつ川端かわばた新崎しんざき順手じゆんでなど、千鳥ちどり川流域などに八幡はちまんさこひがし台地はるなどがある。暦応二年(一三三九)鎮西管領の一色道猷は「高来大河村」の野井六郎女子跡のうちの田地一町など三ヵ所を福田七郎に勲功の賞として与えているが(同年一一月七日「一色道猷宛行状」姉川文書)、この野井氏は当地を拠点とする可能性がある。南北朝期に主要な攻防が行われた野井城の跡がある。一五九〇年(天正一八年)当時ノイNoye村は千々石ちぢわ(現千々石町)の司祭館の管轄下にあり、キリシタンの下女をしている肥後国出身の異教徒の少女が小川に水汲みにいって悪魔が取りついたが、十字架の力で正気を取戻し、またその少女を含めた三四人が受洗したと伝える(フロイス「日本史」)。江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「野伊」とみえ、高四二〇石余。島原の乱では愛津あいつ村などとともに島原藩代官の命で一揆勢力を攻撃、一揆方に参加した者はなかったと想定されている。寛永一五年(一六三八)の当村は竈数九四、男一七八・女一二四(人数覚)。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では野井村として高三九三石余、野井内として今木場いまこば村二〇七石余・橋口はしぐち村一八六石余が記される。


野井村
のいむら

[現在地名]恵那市三郷町野井みさとちようのい

南は夕立ゆうだち山からなべ山に続く山々で、北のきた山との間に挟まれた平坦地にある。耕地は南北の山麓と野井川・永田ながた川沿いの平坦地に開け、集落は山麓に点在する。西は佐々良木さざらぎ村、東は永田村に接する。関ヶ原の合戦後大給松平氏(岩村藩)領となり、以後同藩領。ただし正保三年(一六四六)村高のうち四〇〇石が藩主丹羽氏定から弟氏春に分知されたがその子氏右のとき元禄一五年(一七〇二)采地を越後国頸城くびき郡に移され、村はすべて岩村藩領となる。慶長郷帳では高四九二石余。正保郷帳では田方三四四石余・畑方六〇石余、無地高八七石余。


野井村
のいむら

[現在地名]大田市長久町長久ながひさちようながひさ

西用田にしもちだ村の東に位置する。三瓶さんべ(大田川)が村の中央を東から西へ貫流し、「四望平田ニシテ山林谿谷ノ相隔遮スルナシ」(郡村誌)という広闊な水田地帯を形成する。村名は氏神野井神社に由来するという。正保国絵図に村名がみえ、高四〇九石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方三六二石余・畑方四六石余、年貢高は米二四一石余・銀三七八匁余。


野井村
のいむら

[現在地名]津島町岩淵いわぶち 野井

岩松いわまつ川の支流の野井川流域にある村。北は祝森いわいのもり(現宇和島市)、南は山財さんざい村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「野井村 柴山有、茅山有」と村名がみえる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二六四石八斗で、耕地面積の比率は田九五パーセント、畑五パーセントと水田率が圧倒的に高い。寛文検地では石高が四一パーセント減少し、田七三パーセント、畑二七パーセントとなっている。


野井村
のいむら

[現在地名]邑智町野井

蛇行する江川の南岸に位置し、対岸は粕淵かすぶち小原おばら。中世は佐波さわ郷に含まれたとみられる。江戸初期にかめ村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高二九石余、免六ツ一分。宝永石見国郷村帳には亀村枝郷と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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