野代庄(読み)のしろのしよう

日本歴史地名大系 「野代庄」の解説

野代庄
のしろのしよう

小松東部丘陵の西端付近から木場きば潟・旧今江いまえ潟に囲まれた沖積平野部に位置し、近世苗代のしろ郷を遺称地とするが、それよりやや狭く南方に偏る。「源平盛衰記」巻四(白山神輿登山事)によれば、安元三年(一一七七)二月「野代山」で加賀国留守所の使者上洛を目指す白山大衆が奉ずる神輿に追いついた。「日野一流系図」によれば、永正三年(一五〇六)越前の永正一揆で朝倉氏に敗れ、寺基を加賀へ移していた超勝ちようしよう寺蓮超の弟蓮教が「野代庄本折大垣内」に住し、勧帰かんき寺を開き、蓮教のあと勧帰寺を継いだ超玄(蓮超の真弟)享禄錯乱の時「野代合戦」で討死したとみえる。永正一四年一二月一八日の賀陽院大光明寺領目録案(田中教忠氏旧蔵文書)に「一、加賀国能美郡野代保四分一蓮台寺村・勝金剛寺村・同別相伝買地寄附之地・同長峯山・同野代保惣領渋川殿御料所分」とみえ、野代保には惣領分として渋川氏知行する幕府料所があり、また同保四分一として蓮台寺れんだいじ村、勝金剛寺しようこんごうじ(現不明)長峯ながみね(蓮代寺町地内の山地)などが京都の旧賀陽かや院跡(現京都市中京区)に建立された大光明だいこうみよう寺領となっており、大光明寺は渋川氏の知行分からの供養料や仏事料も合せて請切年貢計二千二〇〇疋余を得ていた。


野代庄
のしろのしよう

宝治二年(一二四八)一一月日の某申状案(近衛家文書)所引の永暦元年(一一六〇)八月二七日付伊勢益田庄下司員部茂助訴状によれば、嘉保三年(一〇九六)の地震により海に沈んだ真目賀嶋・今嶋が、七、八年前に陸地となり、益田ますだ(現桑名市)荘民が開作した。しかし鹿(香)とり・野代両庄の住人がこれを押作したため、益田庄は訴え、野代庄は請文を出し、地利を弁じ、所勘に従ったことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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