日本大百科全書(ニッポニカ) 「渋川氏」の意味・わかりやすい解説
渋川氏
しぶかわうじ
室町時代の九州探題。清和源氏(せいわげんじ)足利(あしかが)流。足利義顕(よしあき)が上野国(こうずけのくに)渋川荘(しぶかわのしょう)(群馬県渋川市)を領したことに始まると伝えられる。南北朝期に足利氏に属して転戦し、1365年(正平20・貞治4)渋川義行(よしゆき)は九州探題に補任(ぶにん)された。しかし南朝方の勢力が強く、九州の地を踏むこともなく帰京せざるをえなかった。その後、探題となった今川了俊(いまがわりょうしゅん)(貞世(さだよ))が1396年(応永3)に解任されると、義行の子満頼(みつより)が任ぜられ、探題職は以後渋川氏が継承するところとなった。義俊(よしとし)、教直(のりなお)、万寿丸(まんじゅまる)、義基(よしもと)、義長(よしなが)と続いたが、いずれも九州を統轄する力はなく、探題という虚名を有するのみとなり、西国の雄大内氏の傀儡(かいらい)と化していき、ついに1534年(天文3)大内義隆(おおうちよしたか)に攻められ滅亡した。
[伊藤喜良]