野村城跡(読み)のむらじようあと

日本歴史地名大系 「野村城跡」の解説

野村城跡
のむらじようあと

[現在地名]春日町野村 城の内木寺

野村集落の西に位置する丹波では珍しい平地居館遺構。野村氏三代の城といわれ、三代目太郎兵衛の代の天正年間(一五七三―九二)に没落したという(丹波志)。現存遺構は小字城の内しののうちに位置し、基本的に方形プランである。北・東・南面に基底幅三―四メートル、高さ一・五―二メートルの土塁が巡っている。かつてはその外縁に水堀もまわっていた。

野村城跡
のむらじようあと

[現在地名]西脇市野村町

加古川杉原すぎはら川の合流点の南方、加古川西岸に接して築かれた中世の城。「播磨鑑」は城主を赤松氏一族の有田(在田)修理太夫重利とする。城跡の墓地には在田修理太夫重則と上原左京太夫兼親の供養碑が残る。近くの板波いたば石上いそのかみ神社には兼親の天文一一年(一五四二)閏三月八日銘の棟札が残るので、この時期の城主であろう。

野村城跡
のむらじようあと

[現在地名]加古川市八幡町野村八幡町宗佐

加古川市と三木市境界の丘陵西側の尾根上に築かれた。城主は野村越前守(赤松家播備作城記)、または宮部善祥房(播磨古城記)といわれる。三つの曲輪から構成され、東側の曲輪は土塁囲みで、横矢の掛かる折れが確認できる。曲輪間の堀の開口部を塞ぎ敵の侵入を防ぐための土塁もあり、永禄(一五五八―七〇)から天正(一五七三―九二)頃の縄張りと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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