野殿村(読み)のどのむら

日本歴史地名大系 「野殿村」の解説

野殿村
のどのむら

[現在地名]下館市野殿

大谷おおや川右岸、下妻街道の不動ふどう坂を上りきった所に位置し、北は西方にしほう村。中世せき庄に属し、永享六年(一四三四)の結城氏朝寄進状(健田須賀神社文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、野殿郷が須賀神社の十二天の祭田として寄進されている。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、同一三年水谷氏は下館城四方の守りの一つとして、下妻口にあたる当村に佐藤源兵衛を配置する(下館市史)。水谷氏の南方にあって競争相手でもある多賀谷氏との抗争に、天正七年(一五七九)不動坂の戦いがあり、「多賀谷旧記」に「下館水野谷之勢州居辺境之士出テ遊猟ス黒子ノ原下妻ナリ、近里侍対之不意ニ争英雄、下館ノ士退去ス、佗後ニ又如先出黒子逢不動坂或曰鳥坂在野殿村、互ニ欲勝負」と記される。


野殿村
のどのむら

[現在地名]岡山市野殿西町のどのにしまち大安寺南町だいあんじみなみまち二丁目・野殿東町のどのひがしまち

東・南・北をささ川の旧河道が堀となって囲み、西は同川が南流して環濠集落を形成する。西方対岸は尾上おのうえ村・花尻はなじり村、北は大安寺村の枝村矢坂やさか。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「野殿ノ天神」とある。戦国末期、富山とみやま城主となった宇喜多忠家が、当地の地形を見立て南麓の平地に根小屋を構えたとも、忠家が富山城をその子左京亮詮家(のちの坂崎出羽守)に譲って、ここに屋敷を構えて隠棲したとも、また富山城が岡山城より高い場所にあるので宇喜多秀家がこれを喜ばず、詮家が富山城を当地に移して住んだとも伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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