野沢町・野沢宿(読み)のざわまち・のざわしゆく

日本歴史地名大系 「野沢町・野沢宿」の解説

野沢町・野沢宿
のざわまち・のざわしゆく

[現在地名]西会津町野沢

阿賀川南岸に開けた平坦地、野沢盆地(野沢平ともいう)の南西部に形成された町場で、現西会津町の市街中心部にあたる。越後街道宿駅として発達し、近世には野沢組をはじめとする会津西端地域の行政・経済の中心地となった。街区は野沢原町のざわはらまち村・野沢本町のざわもとまち村の二村にまたがっていた。野沢の地名中世から登場し、建武三年(一三三六)七月二八日沙弥某は蜷川いながわ庄の「野沢村半分」を石川郡石川氏の一族小平七郎光俊に預けている(「沙弥某預ケ状」合編白河石川文書)。野沢村半分がどの辺りを範囲としたかは不明。また慈円の家集「拾玉集」には「あづまぢやのざはのかつみけふばかりあやめの名をもかりてけるかな」という一首が載り、「会津鑑」はこの歌にみえる「のざは」を当地一帯にあてている。ところで、帳地志方(伊藤家文書)によると、当地を含む野沢平は往昔うし海と号する湖沼であったと伝える。「新編会津風土記」野沢組の項にも「此地往古揚川の水道塞り、其水数里の外に洋溢して遂に一大湖となり、平衍の村落民業を失ひ、漸々に山稜に登り、各自に家居をなせし」とみえ、阿賀川の隘路銚子ちようしくち付近が地滑りによって堰止められたため湛水し、村民は南方の山稜に居を移したということであろう。しかし「何の頃にか下野尻村の北銚子口と云山隘の口決し、其水大に潰て忽平地」になったといい、「今猶山中に水の湛へし跡往々残れり」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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