プロ野球選手(右投右打)。アメリカ大リーグ(メジャー・リーグ)でもプレーした投手。大阪府生まれ。1987年(昭和62)成城工業高校を卒業後、新日鉄堺(さかい)を経て、89年(平成1)ドラフト1位で近鉄バファローズ(現、オリックス・バファローズ)に入団。1990年最多勝、防御率、勝率、奪三振、新人王、ベストナイン、沢村賞、最優秀選手(MVP)の8冠を獲得し、以後94年まで4年連続パシフィック・リーグの最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得した。1995年1月近鉄バファローズを退団し、同年4月にアメリカ、ナショナル・リーグのロサンゼルス・ドジャースとメジャー契約。6月2日対ニューヨーク・メッツ戦で初勝利をあげたあと7連勝し、7月のオールスター戦には日本人として初めて出場し先発投手を務めた。同年は13勝6敗、236奪三振(リーグ1位)で、リーグの新人王を獲得した。大リーグ2年目の1996年8月には大リーグ通算400奪三振、2年連続200奪三振を達成。9月17日対コロラド・ロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成した。同年は16勝11敗の成績を残した。「トルネード(竜巻)」とよばれる独特のフォームから投げられる直球とフォーク・ボールは多くのファンを興奮させ、「ノモ・マニア」のことばまで生まれた。1990年パ・リーグ会長特別表彰、プロスポーツ大賞受賞。1995年菊池寛賞を受賞。
1998年6月、シーズン途中でドジャースからニューヨーク・メッツに移籍したが、99年春季キャンプで解雇され、シカゴ・カブスを経て、ミルウォーキー・ブリュワーズに移籍、12勝をあげた。2000年1月、アメリカン・リーグのデトロイト・タイガースと契約し、開幕投手をつとめたが、8勝12敗に終わった。同年12月、ボストン・レッドソックスに入団。2001年はチーム最多の13勝をあげ、リーグ3位となる220奪三振を記録。4月4日の対ボルティモア・オリオールズ戦で、自身2回目となるノーヒットノーランを達成した。ア・ナ両リーグでの達成は、大リーグ史上4人目となる快挙であった。同年12月に古巣のドジャースに復帰、2002年、03年ともにチーム最多の16勝をあげた。2002年6月には大リーグ通算1500奪三振を、03年4月には大リーグ通算100勝を達成している。2005年タンパベイ・デビルレイズ(現タンパベイ・レイズ)に移籍、同年6月に日米通算200勝を達成したものの、その後成績が振るわず、デビルレイズの若手選手中心の起用策もあり、翌7月に解雇された。同月ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結ぶ。
[森岡 浩]
2006年はシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約したが、右肘(ひじ)の故障で自由契約となり、2007年も大リーグ復帰はならなかった。2008年はカンザスシティ・ロイヤルズで3年ぶりの大リーグ復帰を果たしたが、わずか3試合の登板で戦力外となり、7月に現役引退を表明した。
日本での5年間の通算成績は、登板試合139、投球回1051と3分の1、78勝46敗、防御率3.15、奪三振1204、完投80、完封13。獲得したおもなタイトルは、新人王、最多勝利4回、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振4回、MVP1回、ベストナイン1回、沢村賞1回。大リーグでの実働12年間の通算成績は、登板試合320、投球回1972、123勝109敗、防御率4.21、奪三振1915、完投16、完封9。獲得したおもなタイトルは、新人王、最多奪三振2回。
[編集部]
『野茂英雄著『僕のトルネード戦記』『ドジャー・ブルーの風』(1997・集英社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新