金川城跡(読み)かながわじようあと

日本歴史地名大系 「金川城跡」の解説

金川城跡
かながわじようあと

[現在地名]御津町金川

臥龍がりゆう山頂(二二〇メートル)に築かれた中世山城で、別名玉松たままつ城ともよばれる。旭川中流の戦略的要衝に位置し、備前備中美作の山城のなかでも最大級の規模をもつ。文明一二年(一四八〇)、備前守護赤松政則に反旗を翻した守護代松田元成が、御野みの富山とみやま(現岡山市)から金川に移り、当城を築いたと伝えるが(備陽国誌)築城については諸説があり、承久の乱後この地を賜った松田盛朝が築城したとも、建武年中(一三三四―三八)に盛朝四代の孫重明が築城したともいう(東備郡村志)。金川には延文三年(一三五八)頃、金河光泰・同泰持という金河(川)を姓とする松田氏一統とみられる武士が居たこと(「金河光泰申状」高山文書)、出丸にあった道林どうりん寺は元成の曾祖父元方の開基と伝えられていたこと(「道林寺略縁起」道林寺文書)、寛正七年(一四六六)に備前長船おさふね(現邑久郡長船町)の刀工彦右衛門尉賀光が金川に在住して鍛刀していたこと(小田多良氏蔵刀剣銘)などからみると、文明一二年以前にすでに松田氏一統によって築城されていた可能性も強い。おそらく元成は既存の城郭を拡張・整備して本拠としたのであろう。

金川城に移った元成は、文明一五年備後守護山名俊豊の加勢を得て、赤松方の備前福岡ふくおか(現長船町)を攻略したが、翌一六年の天王原てんのうばら(現同上)の戦いで敗れ、矢上やがみ(現赤磐郡瀬戸町)で自害した(備前文明乱記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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