釜口村
かまのくちむら
[現在地名]河原町釜口
北から北西に流れを変える千代川右岸に位置し、対岸は八日市村・和奈見村。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「カマノクチ」と訓ずる。智頭街道は千代川沿いを北西の高津原村から当村内の集落を抜け、一里塚を経て南の智頭郡下鷹狩村(現用瀬町)に続く。水陸交通の要衝で、江戸初期から宿場として知られる。町分と在分に分れた大村で、支村として六日市・土居がある(因幡志)。「因幡民談記」によると、天正八年(一五八〇)山名豊国が武田高信を大義寺で謀殺した際の出陣で、豊国の家老森下出羽守が「釜ノ口」に在陣していた。
正保国絵図には釜口宿と記され、元禄国絵図作成時に釜口村と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。なお、正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(同館蔵)には釜口村とみえる。支村の六日市村は正保期以前からの内村で、正保国絵図では書落されたが、元禄国絵図に記載された(変地其外相改目録)。
釜口村
かまぐちむら
[現在地名]東浦町釜口、淡路町釜口
下田浦の南西にあり、東に海(大阪湾)を望む。海岸沿いを岩屋街道が北東から南西に通る。西には釜口山(四七五・八メートル)から妙見山(五二五・四メートル)へと連なる山塊が迫り、山並が海へ入り込むなだらかな傾斜地に広がる。大永三年(一五二三)六月一日、八日市淡路屋善兵衛尉光家から中嶋北新左衛門に売却された淡路上郡内の伊勢道者株のなかに、「かまくちの里一円」がみえる(「道者売券案」来田文書)。正保国絵図に村名がみえ、高六九一石余。来馬組に属した。寛政二年(一七九〇)には高一千五四四石余、家数一四一・人数七二六、牛六四・馬七九(「来馬組家数人数等相約帳」正井家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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