デジタル大辞泉 「河原町」の意味・読み・例文・類語 かわら‐まち〔かはら‐〕【河原町】 京都市を南北に走る河原町通り周辺の地域。商業中心街。かつては洛外で、鴨川の河原。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「河原町」の意味・読み・例文・類語 かわらまちかはらまち【河原町】 京都市鴨川(賀茂川)の西を南北に走る河原町通り周辺の地域の称。江戸時代、三条大橋が東海道の終点となり、三条と四条の間が繁栄したため、特にこの地域をさす場合もある。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「河原町」の解説 河原町かわはらちよう 鳥取県:八頭郡河原町面積:八三・六二平方キロ八頭郡の北西部に位置し、北は鳥取市、東は郡家(こおげ)町・船岡(ふなおか)町、南は用瀬(もちがせ)町・佐治(さじ)村、西は気高(けたか)郡鹿野(しかの)町・東伯(とうはく)郡三朝(みささ)町に接する。町域の東端を千代川が南北に貫き、同川に沿って国道五三号が通る。千代川に河原付近で西流する八東(はつとう)川が、その上流で東流する曳田(ひけた)川・宇戸(うど)川が合流し、町域の中・西部では両河川が形成する谷筋に沿って集落が点在する。町名は千代川とその支流の合流点に位置するという立地条件にちなみ、地元では「かわばら」とも通称する。曳田にある嶽(だけ)古墳は郡内では最大規模の前方後円墳で、五世紀後半から六世紀前半頃の築造とされる。古代の町域は「和名抄」にみえる八上(やかみ)郡散岐(さぬき)郷・佐井(さい)郷・石田(いわた)郷・曳田郷に比定され、明治二九年(一八九六)の八頭郡の成立まで八上郡の所属であった。中世前期には古代郷が庄園化した石田庄の存在が知られ、大安興(だいあんこう)寺(現用瀬町)を中心とする修験道の広まりもみられた。 河原町かわらまち 宮城県:仙台市仙台城下河原町[現在地名]仙台市河原町一丁目通町(とおりまち)通(奥州街道)の両側町で、北の南材木(みなみざいもく)町に続く町並の長さは二町(奥陽名数)。道は城下指入口であるために枡形になっている。広瀬川左岸の河原に割付けられたことから町名があるとされるが、対岸の名取郡根岸(ねぎし)村長町(ながまち)宿には、広瀬橋が架橋される以前には長町渡戸によって通じた。正保仙台城絵図には町名がみえないが、町屋敷と記され、長町渡について川幅三四間、深さ二尺とあり、町は成立していた。従来街道は、名取郡根岸村から宮沢(みやざわ)渡戸によって舟(ふな)丁に至る道筋が主であったが、当町割出により長町宿駅に直結するようになったと思われる。あるいは、寛永一四年(一六三七)六月の大洪水で舟丁の橋が流失しているが(義山公治家記録)、そのことが当町割出や長町渡利用の契機と関係があるのではないかと推測される。町方二四町の一七番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、その規模は元禄八年(一六九五)に軒数四六・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)には宅地四六、男三一三・女二六五(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では家数一〇二のうち蔵二〇、弘化二年(一八四五)の軒数七九(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭七〇人、人数五三二(切支丹宗門改人数)。 河原町かわらまち 滋賀県:彦根市彦根城下河原町[現在地名]彦根市河原一―三丁目・銀座町(ぎんざちよう)・錦町(にしきまち)袋(ふくろ)町の西に続く両側町で、北裏には伊賀(いが)町、南裏には足軽屋敷が並ぶ。彦根四町手組の一つ河原町手組一五ヵ町の筆頭。また彦根外(と)町の中心的な町で、善利(せり)川の付替え後、川沿いの地を割付けられたので町名があるという。元和三年(一六一七)足軽増員に伴い当町裏に八組(善利組)が置かれているので(彦根市史)、それ以前に成立していたことが知られる。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数二〇五のうち借家一二六、人数七九七(ほか下人九〇)、諸職諸商は四一種一六一軒で、煙草屋三四・油屋一六・米屋一五・菓子屋九ほか綛屋・檜物屋・表具屋・布屋・小細工屋・青染屋・板屋など、町年寄は酒屋、町代は紙屋、横目は米屋など二人。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では年寄・町代・横目四軒のほか年貢地七四軒。享和―文化期(一八〇一―一八)の公儀見分朝鮮人案内(同書)によれば町の長さ南側一四六間余・北側一九九間余、家数一〇二・竈数一七七、男三四二・女二八四。 河原町かわらまち 鳥取県:倉吉市倉吉町河原町[現在地名]倉吉市河原町江戸期の町人町。東の小屋(こや)町から西へ延びる往来(八橋往来・備中往来)の両側町で、東は広瀬(ひろせ)町にも接する。西を北流する小鴨(おがも)川が限り、南は余戸谷(よどだに)村。初め広瀬町と小屋町の境にあった関口の番所が当町南側の東端に移され、倉吉町への入口の商人町として発展した。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数七八。小屋・広瀬両町との間は北流する鉢屋(はちや)川で限られている。宝暦一一年(一七六一)の幕府巡見使倉吉来訪の際には随行人の世話費用のうち銀銭七匁を当町の平次郎後家と三郎兵衛が負担した。 河原町かわらまち 石川県:金沢市金沢城下第二連区河原町[現在地名]金沢市片町(かたまち)一丁目北陸街道の南にほぼ並行する通りを挟む両側町で本町。竪(たて)町の西にあり、西は犀川中川除(さいがわなかかわよけ)町、北は片町・川南(かわみなみ)町。犀川はもと二筋に分れ、両筋に挟まれていた一帯を広く河原町と称した。元和二年(一六一六)の町立替(三壺記)に町名がみえ、この頃埋立が行われて町地となり、犀川が一筋になったと考えられる(金沢古蹟志)。年次は不詳だが、大工(だいく)町・古寺(ふるでら)町・伝馬(てんま)町・法船寺(ほうせんじ)町・五枚(ごまい)町・十三間(じゆうさんげん)町・片町・川南町・竪町・新竪(しんたて)町などがこの地域に成立、片町・川南町を中河原町、竪町・新竪町を竪河原(たてかわら)町と称し、残りの町を後河原(うしろかわら)町と称した(加能郷土辞彙)。享保一八年(一七三三)四月伝馬町より出火、川原町・後川原町・大工町が類焼したが(「小倉日記」金沢古蹟志)、この川原町は川南町、後川原町は河原町をさす。 河原町かわらまち 広島県:広島市中区河原町[現在地名]中区河原町・舟入(ふないり)町・舟入中(ふないりなか)町・舟入本(ふないりほん)町船入(ふないり)村の北東部、本(ほん)川西岸に沿う縦通りに沿ってできた町で、行政的には船入村に属した。町内に竹の鼻(たけのはな)・瓦焼(かわらやき)・神崎(かんざき)などの地名があり(知新集)、元禄年間広島城下町絵図では、この一帯を「瓦焼新開」と記し、「知新集」は「此所昔瓦焼師へ賜ハり其子孫今に御免地として其業をなす、はしめハ瓦師の住ける故瓦焼といひけるならんを、後に此あたりの惣名となれり」としている。瓦焼は毛利氏築城当時より唐人(とうじん)町に瓦焼場が設けられ、瓦師棟梁桜井庄左衛門・松本東左衛門のもとに諸国より芝山善右衛門ら四人の瓦師が御用聞を勤めたと伝えられる。毛利氏の移封に桜井・松本両氏は従ったが芝山氏らは残り、浅野氏入国後は紀州より随従した瓦師棟梁奥田新右衛門ら六人へ船入村に瓦焼場が与えられ、子孫は藩府の御用瓦師として扶持を下されたと伝えられる(知新集)。 河原町かわらまち 福島県:相馬市中村城下河原町[現在地名]相馬市中村(なかむら) 川原町(かわらまち)万治年間(一六五八―六一)に下士の屋敷を置くために設定された町で、南を宇多(うだ)川が限る。御壇(ごだん)小路の南端を西に折れ、西端の狢(むじな)町を含めた東西二九六間の通りを上河原町という。御壇小路南端から東に折れ、屈曲しながら猫(ねこ)橋に至る東西一〇〇間の通りが下河原町で、そのうち、南北三九間の通りを下河原町西横(にしよこ)町(真光寺東横町ともいう)と称した。ともに下士屋敷が連なっていたが、幕末には猫橋付近に酒造業者が住んでいた。 河原町かわらまち 岡山県:津山市津山城下河原町[現在地名]津山市河原町京(きよう)町の南裏に東西に連なる両側町。東は伏見(ふしみ)町、西は小性(こしよう)町・船頭(せんどう)町、南は吉井川。正保城絵図では町の東半分は足軽町となっている。万治町絵図には川原町と記す。「武家聞伝記」慶長一二年(一六〇七)九月二日条に「新参町、魚屋町、船頭町、瓦町、吹屋町の家ども大形押流れ」とあるように瓦町とも記し、町の成立は慶長初年。その後、足軽町の位置に藩の米蔵が造られ川戸(かわと)蔵と称した。町の東境の伏見町鍛冶場(かじば)から川向うの横山(よこやま)村にかけて渡場があり、近隣はもとより西大寺(現岡山市)方面からの城下への入口となっていた。 河原町かわらまち 熊本県:八代郡竜北町河原町[現在地名]竜北町河原南は氷(ひ)川を隔てて宮原(みやはら)町(現宮原町)と接し、東・西・北は野津(のづ)村と境している。地元では「かわるまち」とよんでいる。氷川の三角洲を開いてできた集落で、村高をもたない。「国志草稿」の宮原町の項に「当町入口氷川を相隔、河原町と云在町有」とあり、集落の発生年代は明らかでない。町は東西に延びる道路の両側にあり、東端には薩摩街道が通り、阿弥陀寺(あみだじ)坂をのぼると中世の大野故(おおのこ)道に出る。文政四年(一八二一)頃の野津手永手鑑に「河原町 三反四畝 運上銀拾七匁九分余、竈数五拾七軒、男女弐百拾八人 内男百拾三人 女百五人、質屋四軒、造酒屋四軒、紺屋瓶四本、麹屋四軒、町長百弐拾間 内百九間御赦免地河原開 十壱間運上銀河原開」とあり、造酒屋・質屋などもあって、幕末までは繁栄したが、明治期に入りしだいに衰微し、とくに大正期の経済不況により現在はかつての面影をとどめない。 河原町かわらまち 福島県:会津若松市若松城下河原町[現在地名]会津若松市川原町(かわらまち)・御旗町(おはたまち)・材木町(ざいもくまち)一丁目東は湯(ゆ)川の大橋より西は材木町に至る。慶長年間(一五九六―一六一五)まで湯川の河原の側に南北に通っていたのでこの名がついた。寛永八年(一六三一)の次郎水と称する大洪水で人家が全部流失したので、翌九年今の地に移し、東西の通りとした。町の東端に架けた大橋は、長さ一五間・幅三間で手すりがついていた(新編会津風土記)。寛文六年(一六六六)の「会陽町街改基・惣町」では、竈七二、男二六七・女二〇一、馬一で、酒屋・紺掻各七、質屋四・桶屋二、檜物師・雑鍛冶各一がいた。 河原町かわらまち 京都府:亀岡市亀山城下河原町[現在地名]亀岡市河原町城郭の北西にあり、東は安町(やすまち)。京街道筋の町で、町並はほぼ東西に五二間。安町との境河原町川に一一間半の橋が架かる。西端は小坂があり、坂の手前から京街道を右折すると茶屋(ちやや)の前(まえ)、茶屋の前(長さ一〇〇間)から縄手八〇間を経て宇津根(うつね)村へ続き、丹後方面に至る丹後道となる。地内は余部村で、同村民によって町作りがされた。亀山由来記(「桑下漫録」所引)によれば、元和七年(一六二一)余部新町を川原町(かわらまち)と改めるとある。 河原町かわらまち 愛媛県:松山市松山城下河原町[現在地名]松山市河原町の一部松山城下町の東南端に近い町。南端は郷村への通路となっていた。東と南は立花(たちばな)町、西は柳井(やない)町、北は湊(みなと)町二丁目に接する。町名の初見は、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)のなかにある。また元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(同会蔵)の「外巡町弐拾三町」のなかにも記されている。なお同書の「水呑町拾八町」のなかに、河原町末新立(かわらまちすえしんだて)町がみえ、さらに後代の注記によると、駿河(するが)町と改めている。 河原町かわらまち 島根県:鹿足郡津和野町津和野城下河原町[現在地名]津和野町後田(うしろだ)竪内(たてうち)町の東側、津和野川沿いの道の西側の町人町(おもに職人が居住)。北は横(よこ)町下(しも)ノ町、南は万(よろず)町下ノ町に接し、横内(よこうち)町によって上ノ町・下ノ町に分れる。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では上ノ町の長さ五九間三尺一寸、西側に町屋八(うち鍛冶四・大工一・紺屋一)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by