下田浦(読み)しもだうら

日本歴史地名大系 「下田浦」の解説

下田浦
しもだうら

[現在地名]中村市下田

下田村内にあった浦方で、四万十しまんと(渡川)河口、土佐湾に面して港がある。

〔中世〕

当地は古来、四万十川流域の門戸として重要であったが、ことに鎌倉時代に入って九条家領幡多はた庄が成立し、建長二年(一二五〇)一条家の荘園として受継がれて以来、幡多庄年貢をはじめ荘内の積出港としての役割を果したとみられる。当時の港の所在地を確定しうる史料はないが、鎌倉時代には幡多庄本郷に船所職が置かれており(文永一二年三月日付「沙弥某下文」金剛福寺文書)、「中村市史」はその船所の所在地を四万十川・うしろ川合流点左岸の(古津賀の小字)に推定するとともに、両河川のつくる三角洲の先端近くに角崎つのさき地名があり、この角崎を中世には津崎と書いたこと(天正一七年の中村郷地検帳)、近代にも帆船がさらに上流の中村市街地の東方、後川右岸付近の久栄岸くえきし右山うやままで遡行していたことなどを傍証としてあげて、広く、中村―下田間を港とみる見解を出している。なお金剛福寺文書の文安四年(一四四七)三月二九日付一条兼良袖判前大蔵卿奉書に寺領津倉淵つくらぶちの四至を記して「東限本郷湊口」とある。本郷とは幡多庄本郷のこと。

応仁二年(一四六八)京都の兵乱を避けて一条教房が中村に移り住んで以来、上方との商業交通は頻繁となり、日明貿易船の土佐沖通過に伴いその寄港地となった。すなわち応仁の乱の結果、周防大内氏瀬戸内海の出入口にあたる関門海峡を扼することになったため、細川氏配下の日明貿易船は土佐沖から九州の南を経由することを余儀なくされた。「大乗院寺社雑事記」文明元年(一四六九)八月一三日条に「唐船帰朝、大内可落取之由在其聞之間、経九州南四国、土州ニ著云々」、同一五年一二月一二日条に「唐船三艘進発近日事也、長門以下路次難(儀)間、可年土佐幡多、自四国渡唐云々」とあるのはそれを物語っている。その際寄港地として一条氏配下の中村の外港たる下田が選ばれたものと考えられる。同一一年和泉の堺に積出された材木、享禄―天文年間(一五二八―五五)移出された材木や、日明貿易によって入手し、朝廷に献上された案摩面・茶碗・扇・緞子・貂皮・黄金板をはじめとする秘物(「大乗院寺社雑事記」文明一一年正月一八日条、「天文日記」天文六年一二月二四日条、「御湯殿の上の日記」享禄二年一一月一二日条・同三年八月四日条・天文五年一一月二六日条・同八年七月一四日条・同二一年七月三日条)下田湊から積出されたものであろう。


下田浦
しもだうら

[現在地名]東浦町下田

たに村の南にある。西手には小丘陵が迫り、東の海(大阪湾)とに挟まれた南北に細長い平地に人家が密集する。北から北の丁(きたんじょ)・中の丁(なかんちょ)・南の丁(みなんじょ)の三町に分れていた(味地草)。永正一五年(一五一八)四月一九日、あわちや平三郎満吉から中嶋北殿に売渡された淡路国のうち「上こうりのふん之内」の計「三さと」の伊勢道者株のなかに、「下田のさといちゑん」がみえる(「道者売券」来田文書)正保国絵図に下田浦とみえ、高三四石余。天保郷帳でも高三四石余。来馬組に属した。反別戸数取調書では反別一町九反余、高三〇石余ですべて蔵入地。文化二年(一八〇五)の家数一〇〇・人数六五九、うち七七軒が加子である(「棟数人数調帳」東浦町地域社会センター蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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