日本歴史地名大系 「下田浦」の解説
下田浦
しもだうら
下田村内にあった浦方で、
〔中世〕
当地は古来、四万十川流域の門戸として重要であったが、ことに鎌倉時代に入って九条家領
応仁二年(一四六八)京都の兵乱を避けて一条教房が中村に移り住んで以来、上方との商業交通は頻繁となり、日明貿易船の土佐沖通過に伴いその寄港地となった。すなわち応仁の乱の結果、周防の大内氏が瀬戸内海の出入口にあたる関門海峡を扼することになったため、細川氏配下の日明貿易船は土佐沖から九州の南を経由することを余儀なくされた。「大乗院寺社雑事記」文明元年(一四六九)八月一三日条に「唐船帰朝、大内可落取
之由在
其聞
之間、経
九州南
著
四国
、土州ニ著云々」、同一五年一二月一二日条に「唐船三艘進発近日事也、長門以下路次難
越
年土佐幡多
、自
四国
可
渡唐
云々」とあるのはそれを物語っている。その際寄港地として一条氏配下の中村の外港たる下田が選ばれたものと考えられる。同一一年和泉の堺に積出された材木、享禄―天文年間(一五二八―五五)移出された材木や、日明貿易によって入手し、朝廷に献上された案摩面・茶碗・扇・緞子・貂皮・黄金板をはじめとする秘物(「大乗院寺社雑事記」文明一一年正月一八日条、「天文日記」天文六年一二月二四日条、「御湯殿の上の日記」享禄二年一一月一二日条・同三年八月四日条・天文五年一一月二六日条・同八年七月一四日条・同二一年七月三日条)は下田湊から積出されたものであろう。
下田浦
しもだうら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報