鍋谷村(読み)なべたにむら

日本歴史地名大系 「鍋谷村」の解説

鍋谷村
なべたにむら

[現在地名]辰口町鍋谷

寺畠てらばたけ村の東に位置する。能美丘陵中央部にあたり、鍋谷川の最上流域、北はたち村・金剛寺こんごうじ村。鍋谷七村との通称があるように、かみ村・中村・もり(杜出とも)大久保おおくぼ(御坊出とも)殿との(との村出とも)・下村・阿古あこ(あこ出とも)の七つの垣内に分れていた。ナベタンとも訓じたが、かつては滑谷なめりたにと称したこともあったという(皇国地誌)。長享元年(一四八七)一〇月二日の守護富樫氏奉行人連署奉書(両足院文書)に「和気内鍋谷」とみえる。当地は京都建仁けんにん両足りようそく院領で、守護富樫政親は同院の代官大西帯刀丞が旧来どおり年貢の沙汰に当たることを両足院領百姓中に伝えている。翌一一月六日の加賀守護代山川高藤書状(同文書)によると、守護代高藤は当地など両足院領の年貢難渋を責め、百姓に年貢納入を命じているが同書状の宛所には「鍋谷川内」百姓中とあり、鍋谷川内とも称されていたと思われる。


鍋谷村
なべたにむら

[現在地名]御津町芳谷よしたに

現御津町南東端の旭川左岸に位置し、南は高倉たかくら(四五八・三メートル)を隔てて牟佐むさ(現岡山市)、東は鍋谷峠なべたにたわ(一八一メートル)を隔てて下仁保しもにぼ(現赤磐郡山陽町)、北は大鹿おおじか村と接する。寛永備前国絵図では高五八石余、枝村に河瀬こうぜ村を記す。「備陽記」では枝村に河瀬のほか梅谷うめがたにを記し、田畑四町九反余、家数三六・人数二五一で、高瀬舟一〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」では、田高九石余・七反余、畑高四六石余・三町六反余、開方田畑高四石余・七反余。直高は一〇八石余で蔵入。家数三八(本村一九・河瀬一四・梅谷三・乢二)、人数一九九、牛八、鹿籠留林一ヵ所、山畝六八町余のうち六七町七反余は百姓自林、三反余は宮林。


鍋谷村
なべたにむら

[現在地名]山田村鍋谷・居舟いぶね

高嶺たかみね村の西方、山田川左岸に立地する。西はうし岳の稜線を境にして、加賀藩領湯山ゆやま(現庄川町)に接する。集落は牛岳山頂付近から流れ出して当村の北端で山田川に合流する鍋谷川に沿って点在するが、とくに山田川に面した丘陵地を居舟とよぶ。居舟地内では、山田川が落差一五メートルの急流となり、魚止ようどめ滝と称されている。正保郷帳に村名がみえ、高五六石余、田方一反・畑方三町六反余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高七六石余・定免二ツ六歩(銀納)、定小物成は山役銀二七匁余・蝋役銀二匁余。


鍋谷村
なべやむら

[現在地名]千代田町鍋谷

東は木崎きざき村、西・南・北はともに赤岩あかいわ村に接する。近世初めは館林藩領。寛永年間(一六二四―四四)から寛文元年(一六六一)までは幕府領。寛文郷帳に田方一二九石二斗余・畑方九五石四斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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