日本歴史地名大系 「長善寺跡」の解説 長善寺跡ちようぜんじあと 宮崎県:えびの市原田村長善寺跡[現在地名]えびの市原田川内(せんだい)川北岸の中島(なかしま)にあった。兜卒山と号し、本尊は弥勒菩薩坐像。曹洞宗で能登総持寺の輪番寺。開山は明窓妙光。「三国名勝図会」によると、応永(一三九四―一四二八)の頃真幸(まさき)院領主北原周防守範兼が末永の出水(すえながのいずみ)観音に参詣して宮原(みやはら)(現上江)を通った際、修行中の妙光に出会ったのを契機にその弟子となり、曹洞宗に深く帰依。応永三年七堂伽藍を建立して妙光を招き、香火田一〇〇町を付与して長善寺と号したと伝える。当寺も総持寺の規制に従い以後、南天派(飯野麓清凉院)・義芳派(吉田昌明寺)・舜派(加久藤徳泉寺)・大鏡派(馬関田大円寺)・梵芳派(飯野麓宗江院)の五派門中を輪番寺とした。 長善寺跡ちようぜんじあと 神奈川県:鎌倉市大町村長善寺跡[現在地名]鎌倉市大町五丁目現名越(なごえ)隧道の西の谷、御嶽(みたけ)付近にあったと考えられる。古義真言宗、医王山長善寺と号し、逗子延命(ずしえんめい)寺末。「風土記稿」は由比(ゆい)の長者染屋太郎大夫時忠の建立と伝える。その後、辻(つじ)の薬師堂傍らに移ったが、本堂は電車線路の敷設に伴い取払われた。本尊の薬師および日光・月光・十二神将像(ともに県指定文化財)は辻の薬師堂に現存する。十二神将は鎌倉・室町時代の作品で、本尊胎内には多数の大般若経の写経が納められ、文明一〇年(一四七八)一二月一五日の奥書のあるものには上総国天羽(あまは)郡との関係を示す(鎌倉市史史料編四)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by