日本大百科全書(ニッポニカ) 「長州藩諸隊」の意味・わかりやすい解説
長州藩諸隊
ちょうしゅうはんしょたい
幕末に長州藩で組織された有志による隊の総称。1863年(文久3)に高杉晋作(しんさく)が赤間関(あかまがせき)(下関(しものせき)市)で奇兵隊を結成すると、下級藩士や百姓、町人の参加による隊が次々に編成された。そのおもなものに、遊撃隊、御楯(みたて)隊、鴻城(こうじょう)隊、南園(なんえん)隊、膺懲(ようちょう)隊、八幡(はちまん)隊、第二奇兵隊、集義隊、荻野(おぎの)隊があった。隊の編成は、総管、軍監、器械方、書記、会計方の幹部と兵士とからなり、数伍(ご)をもって小隊とし、数小隊をもって一隊とし、三田尻(みたじり)、赤間関、山口などに駐屯した。65年(慶応1)には、さらに10隊1500人の定員が定められ、隊士50名を単位に、総管、軍監、書記、斥候(せっこう)、隊長、押伍(おうご)各1名の役員を置き、また軍制改革によって、干城隊(かんじょうたい)を中核とする家臣団編成の隊や、農民を組織した農兵隊とともに、藩の統一的な軍事体制のなかに組み込まれた。翌66年の対幕府戦では、下関に奇兵隊、芸州口に遊撃隊が配置されるなど、藩の中心的軍隊として活躍した。67年には、小隊の各地に屯集することの軍事上の不備から、隊を大隊に編成し直し、奇兵隊と遊撃隊をそのままに、その他の隊を整武隊、鋭武隊、振武隊、健武隊とし、68年の戊辰(ぼしん)戦争へ参加した。しかし、69年(明治2)に兵制改革が行われ、常備軍が編成されると、諸隊は解散を命ぜられ、これを不満とする一部隊士は脱隊して、翌70年にかけて脱隊事件を引き起こした。
[吉本一雄]