松倉村(読み)まつくらむら

日本歴史地名大系 「松倉村」の解説

松倉村
まつくらむら

[現在地名]大曲市松倉

南西に流れるたま川右岸に位置し、川を挟んで南は新谷地にいやじ村、東は長戸呂ながとろ村(現仙北せんぼく中仙なかせん町)、山を越えて北は小杉山こすぎやま村(現仙北郡西仙北にしせんぼく町)に接する。

六郡木山方以来覚(日本林制史調査資料)によれば、万治元年(一六五八)小杉山村より分れて独立した村で、「戸村十太夫御指紙下切開」とある。万治元年九月の戸村大学分松倉村御検地野帳の存在が伝えられるが、内容は明らかではない(月の出羽路)

天和二年(一六八二)の「覚」(六郡木山方以来覚)によれば、村高一〇八石三斗六升、うち三一石八斗四升六合関代・川欠・永捨り、七六石五斗一升二合戸村十太夫分。


松倉村
まつくらむら

[現在地名]川島町松倉町

松原島まつばらじま村の東に位置し、北は木曾川本流、南はその派流に限られる。木曾川北岸の下中屋しもなかや(現各務原市)との間に牛子うしこ渡があり、木下藤吉郎(羽柴秀吉)墨俣すのまた(現安八郡墨俣町)築城の際の用材運搬基地となった(「永禄墨俣記」墨俣一夜城築城資料)。当地長光ちようこう寺の梵鐘(元文五年鋳替)の銘に天正五年(一五七七)の年紀があり、「濃州葉栗郡東門間庄本庄郷梅水海道 川島山長光寺常住物 濃州葉栗郡松倉村」とある。慶長郷帳によると高一八二石余、旗本坪内領。


松倉村
まつくらむら

[現在地名]矢吹町松倉・諏訪清水すわしみず上敷面じようしきめん清水塚しみずづか

いずみ川流域に位置し、北東は石川郡中畑なかはた村、南西は七軒しちけん新田村、南は関和久せきわぐ(現泉崎村)、東は滑津なめづ(現中島村)。「和名抄白河郡松田まつだ郷・松戸まつへ郷があり、「白河古事考」はこれを松倉に比定する。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に、雄野おの駅・松田駅・磐瀬いわせ駅があり、雄野駅が現在の表郷おもてごう村、磐瀬駅が須賀川市とすれば、里程で中間となる松田駅を松倉にあてることができる。天正一八年(一五九〇)船尾山城守の滑津館落城の際、山城守の二万石の領地に松倉村が含まれていたという(白河古事考)。初めは会津領、寛永四年(一六二七)以降白河藩領で、慶応二年(一八六六)幕府領となる。


松倉村
まつくらむら

[現在地名]魚津市松倉

かど川の水源地にあり、北は古鹿熊ふるかくま村、西は虎谷とらだに村。垣内としてウツロコヤがある(文化七年「新川郡郷庄附村名書上申帳」加越能文庫)。江戸前期まで加賀藩の越中金山の一つとして金山が栄え、松倉金山(三州志)・松倉加禰山(三州地理志稿)と称された。金山は応永年間(一三九四―一四二八)から開かれたと伝えられ、天正年中(一五七三―九二)頃まで松倉城にあった越後の河田長親に運上銀を納入したという(天明六年「松倉金山由来書上」金子家文書)


松倉村
まつくらむら

[現在地名]栗駒町松倉

いわさき村の北西、三迫さんのはさま川沿いに立地する。東は三迫鳥沢とりさわ村、北は同沼倉ぬまくら村。当村も三迫に属し、三迫大肝入の管轄。「仙台領古城書上」に小野寺道戒入道を城主とする松倉城がみえ、東西六〇間・南北七〇間。「安永風土記」には小野寺氏を館主とするささもり館がみえ、高さ三五丈・東西五二間・南北四〇間とある。同氏につき「栗原郡誌」は小野寺家系図を引き、文治年中(一一八五―九〇)の藤原泰衡討伐の軍功により栗原郡松倉里近郷を領し、のち末裔の道戒入道が天正一三年(一五八五)伊達政宗に敗れ、羽州仙北(現秋田県南東部)に逃れたという。


松倉村
まつのくらむら

[現在地名]那須町豊原甲とよはらこう

高久たかく丘陵の東部に位置する。松之倉・松野倉・松ノ倉とも記した。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに松倉とあり、「横岡・戦・逃シ室」とともに高八六四石余(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。近世を通じ黒羽藩領。同藩の「創垂可継」封域郷村誌巻二によると寄居西よりいにし組に属した。元禄郷帳では高四三石余。改革組合村では高九四石余、家数六。寛文九年(一六六九)の拝借金等につき口上書(松本稔文書)によると陸奥白河藩から馬金の返済を迫られた附子村の一村であった。享保七年(一七二二)には原街道夕狩ゆうがりと奥州街道寄居よりいの米問屋が附子村としての当村の帰属をめぐって相論となり、寄居の米問屋に所属することが確認された(「附子勤方定」松本稔文書)


松倉村
まつくらむら

[現在地名]立山町松倉

座主坊ざすんぼう村の北の山間に位置し、北は小又おまた村。村名は天正年間(一五七三―九二)に松倉某というもと武士にちなむと伝える。同人が当地の八幡社に相撲の勝利を祈願し、勝利したので社殿を建てたという。また同じく天正年間の池田いけだ城落城後、家臣が当地へ落延び開拓したともいう(五百石地方郷土史要)。なお八幡社近くの松倉経塚遺跡(消滅)からは享禄四年(一五三一)銘の経筒が出土し、当村は立山登拝道に沿っていたことを物語る。正保郷帳では高六三石余、田方二町五反余・畑方一町余。


松倉村
まつくらむら

[現在地名]鶴田町横萢よこやち 松倉

東は横萢村、西は山道やまみち村、南はおき村、北は柏木かしわぎ堰に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳に横萢村支村として田方七一町六反二畝四歩、畑方一一町六反二二歩、田畑屋敷合せて八三町二反二畝二六歩、村高六七六・三〇七石、百姓四〇人とあり、「享保十一午年郷村御改之節此松倉村ヲ本村ニ御立被成候」と貼紙があり、享保一一年(一七二六)本村になっている。


松倉村
まつくらむら

[現在地名]双葉町松倉

南は上羽鳥かみはとり村、北は寺沢てらざわ村に接し、松倉迫まつくらさくとよばれた小さい谷間にある。渋川しぶかわ村や上羽鳥村の住民により開かれたと思われ、明暦二年(一六五六)渋川村より分村し、同年の高一〇石余(相馬藩政史)。元禄郷帳に松倉村とあり、渋川村枝郷と注記され、高二五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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