長浜浦(読み)ながはまうら

日本歴史地名大系 「長浜浦」の解説

長浜浦
ながはまうら

[現在地名]小倉北区長浜町・末広すえひろ一―二丁目

小倉城下の北東に位置し、北部は海(玄界灘)に臨む。東は富野とみの村、西は門司もじ口の堀(砂津川)を境にきよう町と接する。南の砂原すなはら村のうちの浦方集落。慶長七年(一六〇二)細川忠興の小倉城築城にあたってむらさき川河口の東西に住んでいた漁人を東浜(長浜)・西浜(平松)に分住させたという(倉府俗話伝)。元和八年人畜改帳に「長はま浦」とみえ、家数五三、人数一七六(うち加子役仕者一六・川口番二・名子二二・大工一)で、漁一偏のため高はないと注記される。別に「長はまノ新町」とあり、家数三〇、人数六〇(うち日用取九・日用頭本百姓一)、牛六。元禄国絵図では砂原村のうち長浜浦とみえる。


長浜浦
ながはまうら

現在の長浜港およびその周辺地域にあたる。室町期以来、石見五港の一つとして栄え、戦略上の要衝でもあった。

〔中世〕

「海東諸国紀」に付された日本本国之図に長浜浦がみえる。港としての発展は一五世紀中頃からで、「李朝実録」によると、李朝世宗七年(一四二五)一二月暴風により長浜に漂着した朝鮮水軍の乗員張乙夫ら一〇名が順都老(周布兼仲)の保護を受け、対馬の有力者早田左衛門太郎の仲介で本国に護送されており、これを契機として朝鮮との交易が始まったことによる。以後燕山君八年(一五〇二)までの間に石見州長浜因幡守・藤観心など周布兼仲名義で七回、周布兼貞名義で九回、周布和兼名義で三三回の交易が行われている。


長浜浦
ながはまうら

崎山さきやま半島の七尾南湾に面する大田おおた町から北の三室みむろ町に連なる海岸線。天平二〇年(七四八)大伴家持が「珠洲郡より発船して治布に還りし時に、長浜のうらに泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌一首」として「珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の湾に月照りにけり」(「万葉集」巻一七)と詠じている。「長浜の湾」については現穴水あなみず町のほか能登に数ヵ所、富山県氷見市などに比定する説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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