長浜村(読み)ながはまむら

日本歴史地名大系 「長浜村」の解説

長浜村
ながはまむら

[現在地名]沼津市内浦長浜うちうらながはま

三津みと村の南西にあり、西は重須おもす村。北西は海(内浦湾)に面し、南東に発端丈ほつたんじよう山がそびえる。

〔中世〕

天文一一年(一五四二)一一月一六日北条氏は「長はま 百姓中」に対して朱印状(長浜大川文書、以下断りのない限り同文書)を発し、大川四郎左衛門ら六人の舫艇船所有者に船役銭(一艘につき二〇〇文、計一貫二〇〇文)の納入を催促している。なお永正一五年(一五一八)一〇月八日の北条家朱印状(大川文書)の宛所に「長浜」とみえるが、これは異筆である。天文一二年九月七日、北条氏は当地で検地を行い、同月一五日には検地書出を代官・百姓中に与えている(北条家検地帳写・北条家検地書出)。検地書出によれば反別は田一町六反三三〇歩、畠は一町四反三三〇歩で、分銭(年貢銭)は一一貫一三〇文、うち大川四郎左衛門が全耕地の四分の一強を保有していた。翌一三年九月一五日、北条氏は長浜の棟別役の取帳を作成(北条家棟別取帳案)、これによれば長浜の家数は二三軒で、棟別銭は一貫一八三文であった。翌年六月二五日、北条氏はこの棟別銭の納入を長浜代官・百姓中に命じている(北条家朱印状)。同一九年四月一日、北条氏は公事賦課の法を改め、百姓に訴訟権を認め、還住した百姓の借銭・借米を赦免している(北条家朱印状)

長浜村
ながはまむら

[現在地名]浜田市長浜町

東は熱田あつた村、西は日脚ひなし村、南は内田うちだ村。北は日本海に面し、中世以来港が開かれていた。明応八年(一四九九)一一月一六日の三隅興信感状(肥塚家文書)によると、小石見こいわみ郷の領主三隅興信が長浜の中原なかはら城に軍勢を派遣した際、肥塚左衛門次郎の軍功を賞している。中原城は周布すふ郷領主周布氏の支城と推測され、「郡村誌」に長浜村本村の東にある字として中原がみえる。大永二年(一五二二)長浜で合戦があり、大内義興が周布氏の同名衆ならびに郎従以下の軍功を賞している(一〇月一二日「大内義興書状」閥閲録)。なお天正一九年(一五九一)周布孫右衛門尉が毛利氏から与えられた九九八石の所領のなかに「本郷永浜」の一四六石五斗九升三合がみえる(「毛利氏老臣并奉行衆連署打渡状」同書)

元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高六四三石余、年貢高は田方二一五石余・畑方一五二石余。小物成として塩浜役銀三〇〇目二分があった(同年古田領小物成帳)

長浜村
ながはまむら

[現在地名]高知市長浜

浦戸うらど村の西にある大村。村の中央部を長浜川が東流して浦戸湾に注ぐ。その河口部左岸にかじうら(鍛冶浦)、右岸には藻洲潟もずかた(鵙方)の浦方もあった。吾川あがわ郡に属した。「土佐州郡志」は「東限浦戸鹿谷、西限東諸木名村山、南限滄海、北限宇津野山鷲尾山、東西二十町余南北一里許、其土多砂」と記すが、これは枝村扱いとなっていた北方の瀬戸せと村・横浜よこはま村をも含めたものと考えられる。「和名抄」にみえる古代の仲村なかむら郷は当地を中心とする地に比定されるが、仲村郷は鎌倉時代には京都左女牛八幡領となっている(醍醐寺文書)。戦国時代は、長岡郡本山もとやま(現本山町)から土佐平野に進出した本山氏の勢力下にあったが、本山氏は永禄三年(一五六〇)長宗我部氏に敗れ、当地にあった長浜城も落ちた。

天正一六年(一五八八)の長浜地検帳は近世の長浜村分のみでなく、東の浦戸村・勝浦浜かつらはま村・御畳瀬みませ村、北の瀬戸村・横浜村の地域を含み、これら近世の村名も地検帳には小村名としてみえる。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]伊万里市東山代町ひがしやましろちよう長浜・同日尾ひお・同天神てんじん

慶長絵図や正保絵図、天保郷帳などに村名はない。脇野わきの村の北、伊万里湾の干拓地をさす。字名に奥浦おくら北土井きたどい・中土井・浜頭はまがしら浜田はまだ新浜しんはま・ウゲ島・田土居尻搦たどいじりからみしん搦・天神搦など海浜や干拓に由来するものが多い。元和(一六一五―二四)以後には長浜村と称されたと思われるが、江戸時代後期作の山代郷長浜村絵図によると、奥浦に奥浦籠おくらこもり九郎惣くろうそう籠がある。現海岸の近くの地に搦がつき、遠ざかった所に籠地名があることは、干拓の新旧を示す。

長浜と日尾との中間に白幡しらはた神社があり、近くに鉄山かなやまと呼称される所がある。安政四年(一八五七)の松浦郡山代郷図には製鉄炉と思われる建物を描いてあり、鉱石運搬船が有田川に入航して、丘陵上の鉄山で製鉄されていたことがわかる。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]足和田村長浜

河口かわぐち湖西岸にある。南部から南西にかけて足和田山の稜線上で成沢なるさわ(現鳴沢村)と境し、同山東端の天神てんじん峠を通る若彦わかひこ路で大嵐おおあらし村に通じる。西は十二じゆうにヶ岳から派生する尾根上の鳥居坂とりいさか峠で八代郡西湖にしのうみ村に通じ、北は毛無けなし(一五〇〇・一メートル)から御坂みさか山地へ続く。小立常在寺こだちじようざいじ所蔵「教機時国教法流布五段鈔」巻末の福徳二年(延徳三年、一四九一)の年紀をもつ覚書に「長浜」とみえる(河口湖町の→川口村

長浜村
ながはまむら

[現在地名]伊良部町長浜ながはま

伊良部島の西部に位置し、北は佐和田さーた村、南は国仲ふんなか村。村域は西の下地すむず島を含む。当地の祭祀は長浜元島寄りの腕山御嶽(通称長浜ユークイ)を中心とし、粟プーなどの祭祀がある。祭神はアカラトモガネで、比屋地ぴやーず御嶽から勧請されている。両島絵図帳に当村名の記載はないが、高一九石余とある「にし村」は佐和田・長浜両村の前身と考えられる。伊良部長浜遺跡からは南蛮陶器・磁器・須恵器・土器が確認されており、「にし村」跡の可能性が高い。伊良部下地島のとおり池近くにあったキドマリ(木泊村、現佐和田)の人々が佐和田・長浜の祖先という伝承もある。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]上越市長浜

虫生岩戸むしういわと村の西方、海に面して位置。北陸道が通り近世には駅があった。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳の鍬取くわとり惣郷の項に「駅馬三ケ所 長浜」とある。

「廻国雑記」によると著者道興は、文明一八年(一四八六)七月越中から越後に入り、一五日守護上杉房定の世話により府中の至徳ふちゆうのしとく長松ちようしよう院を宿とした。同院に七日間逗留ののち柏崎に向かったが、同書に「府中をたちて、長浜といへる所にやすみて」とある。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]上里町長浜

中長浜なかながはま村とも称する。南は長浜上郷ながはまかみごう村、北は長浜下郷村、西は神流かんな川を挟んで上野国緑野みどの上戸塚かみとづか(現群馬県藤岡市)。中世には長浜郷のうちに含まれていた。正保国絵図に南北二つの長浜がみえ、正保年中改定絵図(風土記稿)では南は長浜村、北は長浜下郷となっている。田園簿では田方四一〇石余・畑方八九石余、旗本新見・榊原・室賀の三家の相給。国立史料館本元禄郷帳では旗本鈴木・美濃部の二家の相給。延享三年(一七四六)の上総久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえる。幕末の改革組合取調書では幕府領と旗本鈴木領の相給。用水はくす川から取水しているが、延宝三年(一六七五)四軒在家しけんざいけ(現神川町)のうちの楠川が満水となり、当村および久保くぼ(当村の一部)・長浜下郷村が新たに用水堀一〇〇間を掘ったため、四軒在家村は新堀の替地として田畑三反余を渡すことが取決められた(松原家文書)

長浜村
ながはまむら

[現在地名]秋田市下浜長浜

桂根かつらね村の南二五町、由利街道沿いの集落。東に国見くにみ山の丘陵地が広がる。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に「羽根川郷」六ヵ村の一つ「金山村」とみえる。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)にも「高四百六拾石八斗弐升 金山村」とある。元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領変地其外相改候目録(県立秋田図書館蔵)で由利郡金山かなやま村を長浜村と改め、以後長浜村とよばれる。天保五年(一八三四)深沢ふかさわ(現由利郡大内町)の鈴木津右衛門が、前年の大凶作の惨状を書き留めた「凶作物語」(県立秋田図書館蔵)に、「長浜ニハ七八十人かつし棟四十斗相潰申候」と記す。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]読谷村長浜ながはま

瀬名波しなは村の南東にあり、北は東シナ海の入江に面する。集落は東方長浜ながはま川河口南側の砂浜海岸低地にある。絵図郷村帳に「長浜村」とある。琉球国高究帳には「長はま村」とみえ、高頭五六石余、うち田一七石余・畠三八石余。港があったという入江にはトーシングムイ(唐船塘)の地名や唐船を係留したとされるトーシンシー(唐船岩)があり、読谷山花織や南蛮甕の技法および民俗芸能のチクタヌメー(作田舞)やフェーヌシマ(南島踊)がこの港から伝わったといわれる。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]下甑村長浜

下甑島の中央部東岸に位置し、長浜湾に面する。西は瀬々野浦せせのうら村、南は青瀬あおせ村。北部の小田おだ(四二六・五メートル)甑島こしきじま列島最高峰の(六〇四・三メートル)を境に北は藺牟田いむた(現鹿島村)。慶長七年(一六〇二)マニラのドミニコ会宣教師モラレス一行が長浜に上陸し、同一四年まで布教活動を行った。布教活動の拠点も当地で、駐在所と天主堂が設けられていた(下甑村郷土誌)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では下甑島のうち。元禄国絵図には下甑村のうちとして村名がみえる。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高一七三石余。

長浜村
ながはまむら

館岡たておか村の西方に位置し、屏風びようぶ山の通称浜中はまなかにあったというが、廃村のため位置不明。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて一一町七反八畝一五歩、村高三九・〇八三石とある。うち田方五町五反八畝二二歩で三一・四五二石、上田から下々田まで設定され、下々田が四町四反一畝八歩、二二・〇六三石とあり、畑方は六町一反九畝二三歩で七・六三一石、上・中畑がなく下畑のほかに下々畑が五町九反七畝歩、五・九七石とある。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]舞鶴市字長浜

余部下あまるべしも村の北に位置、舞鶴湾を挟んで佐波賀さばか村に対する沿岸集落で、農業・漁業を中心に生計を立てていた。

古代は「和名抄」に記す余戸あまるべ郷の地と推測され、中世には余部里あまるべのさと庄に含まれていた。当村にある高倉たかくら神社に、天正一二年(一五八四)若狭高浜たかはま(現福井県大飯郡高浜町)の城主岡本主馬助が田畑を寄進しているが、その寄進状(高倉神社文書)に「余部之内長浜八幡宮」とみえる。

慶長検地郷村帳には高一九七・七八石「長浜村」とあり、江戸後期の土目録でもほぼ同高。内訳は田方一七八石余、畑方一六石余であった。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]只見町長浜

伊南いな川を挟んで荒島あらしま村の南に位置し、集落は山麓の沼田街道沿いにある。地内には川除かわよけ川除前かわよけまえなどの地名が残り、伊南川の洪水を防ぐのに苦労した跡がうかがえる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「長浜 弐百四十一石九斗三升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で免三ツ四分。黒谷組に属する。安永七年(一七七八)には高二九四石余(会津鑑)。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高二五四石余。「新編会津風土記」によれば村は東・西に分れ、家数は東一二・西二〇。米倉があった。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]宇土市長浜町

東は笠岩かさいわ村・下網津しもあみづ村、西南は網田おうだ村、北は島原湾に面し、東・南は山林で西・北は高低ある地形である。村の中央にひがし、北東に牧道まきのみち、東に除平よけのひら、南東に十郎迫じゆうろうざこ南笠瓜みなみかさうり、南に亀迫かめざこなどの地名がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。「国誌」に「浦村笠瓜村等小村有」とあり、天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると竈数五八・人数三三五・役男八四、本方高一八六石余、田六反九畝余・畑一〇町八反四畝、新地田畑一反三畝余、諸開五町四反四畝余。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]柏崎市長浜町・田塚たつか一丁目・東長浜ひがしながはま町・三和さんわ町・日吉ひよし町・四谷よつや三丁目

東は田塚村、西は比角ひすみ村、南は半田はんだ村、北は春日かすが村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高一四八石余。鯖石組大肝煎坂井三太夫は初めこの地に住したが、風砂のため寛永一五年(一六三八)移住して両田尻りようたじり村を開発している(白川風土記)ように、砂害が甚大で、天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では一〇九石四斗余に減高している。

長浜村
ながはまむら

[現在地名]土庄町長浜

滝宮たきのみや村の西にあり、北は海に面する。海浜部の内浜うちはまには弥生時代貝塚遺跡があり、弥生式土器・獣骨などが出土、周辺からは師楽式土器片が多く発見された。近世小海おみ郷の枝村。延宝五年(一六七七)の網廻船運上積帳(足守木下家文書)によると、当村の網数は烏賊手繰網七。宝暦明細帳では高一八一石余・反別三六町八反余(田五町九反余・畑三〇町九反余)、塩浜数一〇九余・塩浜役二一八俵で、小海郷では当村が最も多く塩を生産した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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