写真家。埼玉県浦和(現さいたま市)生まれ。父は東京中井銀行の創業者。1910年代から30年代の日本で、芸術としての写真という表現領域の確立と推進に大きく寄与した。17歳ごろから写真を始める。慶応義塾大学理財科(現経済学部)に在学中の1909年(明治42)、有力なアマチュア写真家団体東京写真研究会へ入会。年1回開催の同会年次展に出品するようになり、風景や人物などを主題としたゴム印画法(アラビアゴム、重クロム酸塩カリウムと各種の顔料の混合乳剤を塗布した紙などの支持体に画像を焼付ける写真印画法で、画面のテクスチュアや色調をコントロールしやすく、耐久性にも優れている)による重厚な作風で早くから注目を集めた。11年結核を患(わずら)い大学を中退。翌12年に東京写真研究会の会員たちと「四人会」を結成し、勉強会などを活発に行った(15年(大正4)まで継続)。15年制作のヌード作品「樹による女」は、初期の傑作として特に名高い。同年オーナーとして東京・日本橋人形町に三笠写真館を開設(20年麹町(こうじまち)九段に新設した野々宮写真館の経営へ転じる)。また19年には東京・神田神保町に兜(かぶと)屋画廊を開設、関根正二、中川一政(かずまさ)ら新進の洋画家たちの個展を催すなど、同時代の美術を支援する活動にも力を注いだ。
1930年代に入って、野島は欧米から伝播してきた写真表現上のモダニズムの潮流に感化を受け、作風を大きく変化させた。それまでの絵画主義的な印画技法を捨て、ゼラチン・シルバー・プリント(ゼラチンと銀塩の乳剤を塗布した印画紙を用いる、現在一般化している白黒写真印画法)での制作に転じ、「モデルF」として知られる女性を撮ったヌードやポートレートの連作をはじめ、大胆なクローズ・アップや抽象的な空間構成によって力感溢れる女性像を数多く撮影した。こうした表現上の転換と並行して、32年(昭和7)、自らの出資で写真雑誌『光画』を創刊。同人として写真家の中山岩太(いわた)、木村伊兵衛が参加。2号目より写真評論家伊奈信男も加わる。当時さまざまな実験作に取り組んでいた東京や関西の写真家たちの作品や、海外の新しい写真表現の動向を紹介した記事を掲載する画期的な雑誌作りをすすめた。同誌は33年、通巻18号目にあたる12月号で休刊となったが、史上有数の質の高い内容をもった写真雑誌として今日も評価を得ている。
『光画』休刊以降、写真家としては第一線を退き、母校の慶応義塾大学カメラクラブや、37年に創設したレディス・カメラクラブなどのサークルで後進の指導にあたった。
[大日方欣一]
『『野島康三遺作集』刊行会編『野島康三遺作集』(1965・日本フォトセンター)』▽『京都国立近代美術館編・刊『京都国立近代美術館・所蔵作品目録IV 野島康三』(1997)』▽『『日本の写真家4 野島康三』(1998・岩波書店)』▽『飯沢耕太郎著『写真に帰れ――「光画」の時代』(1988・平凡社)』▽『「野島康三とその周辺」(カタログ。1991・渋谷区立松濤美術館)』
大正・昭和期の写真家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…東京美術俱楽部は東京のほか大阪,京都,名古屋,金沢に俱楽部をもち,入札競売のほか毎年〈五都展〉を開く。一方,洋画商の草分けは1910年,高村光太郎が開いた琅玕堂(ろうかんどう)で,大正初期に田中喜作の田中屋,川路柳虹の流逸荘,野島康三の兜屋がつづく。昭和初期に牧師出身の長谷川仁がはじめた日動画廊は,戦前は上海,戦後はパリをふくむ10都市以上に支店をもった。…
※「野島康三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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