日本大百科全書(ニッポニカ) 「深瀬昌久」の意味・わかりやすい解説
深瀬昌久
ふかせまさひさ
(1934―2012)
写真家。北海道中川郡美深(びふか)町に生まれる。本名は昌久(よしひさ)。家業は、山形から北海道に移住した祖父が開業した営業写真館で、子供のころから暗室の手伝いなどもして写真は身近な存在だった。高校1年の時に自分専用のカメラを与えられ、このころからカメラ雑誌のコンテストなどに投稿をするようになる。日本大学芸術学部写真学科に進み、1956年(昭和31)の卒業と同時に第一宣伝社に入社して、コマーシャル写真を中心とする仕事に就く。1960年には写真展「製油所の空」(小西六ギャラリー、東京)を開催するが、これは会社の仕事として撮った写真を構成したものだった。
本当の意味での写真家デビューは翌年の写真展「豚を殺せ」(銀座画廊、東京)である。と畜場の写真と同棲していた女性の写真によって構成された写真展であったが、この写真展で深瀬の独特の感性と美学や手法を開花させて、新進写真家として注目された。1964年には日本デザインセンターに移り、同年深瀬の写真に大きな力となる鰐部(わにべ)洋子と結婚。さらに1967年には河出書房新社に入社して写真部長となり、翌年に退社してフリーランスの写真家となった。
1964年の結婚以降、1976年に離婚するころまで妻洋子の写真を撮りつづけ、これが深瀬の代表作「洋子」のシリーズとなり、1971年に最初の写真集『遊戯』として出版された。タイトルが示すように、奇妙なポーズのウェディング・ドレス姿の洋子、以前に同棲していた女性、団地の部屋で裸になった洋子、洋子と母とが腰巻一枚で立つ写真、美深の写真館のスタジオで裸になった洋子が、深瀬家が一同揃った中に立つ記念写真など、さまざまの組み合わせやシチュエーションで撮られている。その後も撮りつづけられた「洋子」のシリーズは、離婚後の1978年に『洋子』として再構成されて出版された。
離婚した前後から、深瀬にとってもう一つの大きなテーマである「鴉(からす)」のシリーズを撮りはじめた。黒く不気味な鴉はそれ以前にも撮っていたが、このころから意識的に撮るようになり、1976年の写真展「烏」(銀座ニコンサロン、東京)で伊奈信男賞を受賞。1987年には写真集『鴉』として出版された。1985年ころから、中断していた組み合わせゲームの記念写真のような家族写真の撮影を再開した。1987年に、父の死までを撮った写真をまとめて写真展「父の記憶」(銀座ニコンサロン、東京)を開催し、1991年(平成3)には『家族』を出版。このほかに、飼っていた猫を撮影した『ビバ! サスケ』『猫の麦わら帽子』(ともに1979)などの写真集を出版している。
[大島 洋]
『『現代の影像4 遊戯』(1971・中央公論社)』▽『『ソノラマ写真選書8 洋子』(1978・朝日ソノラマ)』▽『『ビバ! サスケ』(1979・ペットライフ社)』▽『『猫の麦わら帽子』(1979・文化出版局)』▽『『サスケ! いとしき猫よ』(1979・青年書館)』▽『『空海と高野山』(1982・佼成出版社)』▽『『鴉』(1987・蒼穹社)』▽『『家族』(1991・アイピーシー)』▽『『日本の写真家31 深瀬昌久』(1998・岩波書店)』▽『長谷川明著『写真を見る眼』(1985・青弓社)』▽『大竹昭子著『眼の狩人』(1994・新潮社)』