門川尾末村(読み)かどがわおずえむら

日本歴史地名大系 「門川尾末村」の解説

門川尾末村
かどがわおずえむら

[現在地名]門川町門川尾末・東栄町ひがしさかえまち西栄町にしさかえまち上町かみのまち本町ほんまち中須なかすみやはらさかえおかじようおか平城西ひらじようにし平城東ひらじようひがし

九左衛門くざえもん峠の南東麓に源を発する五十鈴いすず川の下流域に位置し、西は川内かわち村、南は富高とみたか村・日知屋ひちや(現日向市)、東から北は加草かくさ村に囲まれ、東は門川湾に面する。豊後街道が通り、五十鈴川に古川ふるかわ渡があった(日向地誌)。江戸時代中頃までの史料では門川村と尾末村(尾末浦)をそれぞれ一村として高付しているものが多いが、以降は尾末門川村(元禄五年「延岡藩領郷村高帳写」三浦家文書など)、門川村(元禄国絵図。同絵図は「門川村之内尾末村」を別に記すが、高は門川村に一括する)などと一村として扱われている。天保郷帳でも尾末門川村で、「古者門川村」の注記がある。なお門川は門河とも記した。

長禄元年(一四五七)財部たからべ(現高鍋町)土持氏を攻撃して勝利した伊東氏は東児湯ひがしこゆ入郷いりごうの一〇城を手に入れ知行することとなったが、そのなかに門川城がみえる(日向記)。文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には伊東氏の持城山東さんとう城の一つとして「門川」が記されている。文明一六年(一四八四)櫛間くしま(現串間市)伊作久逸を援助して飫肥おびの新納忠続を攻撃した伊東祐国は二三の外城衆を率いていたが、このなかに門川衆がみられる(日向記)。享禄四年(一五三一)八月一九日の福永祐奉安堵状(定善寺文書)では「門河之内小松寺・大原寺」が日知屋の定善じようぜん寺の末寺として安堵されており、福永氏が地頭であったと思われる。「日向記」は永禄一一年(一五六八)頃の伊東氏の分国中城主のなかに「門河城主 米良四郎右衛門尉」をあげる。元亀三年(一五七二)五月四日の伊東義祐と島津義弘との木崎原合戦では敗れた伊東方の討死者のなかに、門河在住の中野新左衛門・福永四郎兵衛の名がみえる(明赫記)。「日向記」によると、天正五年(一五七七)米良氏を城主とする門川城があがた(現延岡市)の土持氏によって攻められたが、退却させたという。同城跡は五十鈴川が弧を描いて東流する北側に位置し、本丸跡・二の丸跡があり、城屋敷じよやしきの地名が残る。同城は塩見しおみ城・日知屋城(現日向市)とともに伊東氏支配の三城とよばれている。

天正五年島津氏に攻撃された伊東義祐は豊後に逃亡し、同年一二月二四日、大友氏は島津氏に対して書面を送り、門川など三城の処理を問題にしている。この付近が島津勢力と大友勢力の境界となっていた。同六年大友宗麟はキリスト教的理想王国建設を夢見て日向に侵攻し、二月二〇日、豊州表から兵船一五艘余で門川浦へ来着した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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