門谷村(読み)かどたにむら

日本歴史地名大系 「門谷村」の解説

門谷村
かどたにむら

[現在地名]日野町門谷

濁谷にごたに村の南西に位置し、北東流して真住まなすみ川に合流する門谷川沿いの村。下流よりかど三栗みつぐりの二集落からなる。同川上流の明地あけち(明智峠)を越え、備中国に至る。後醍醐天皇の隠岐配流にあたり、行在所跡を帝谷みかどだにと称し、のち門谷と略称したのが村名由来と伝える(日野郡史)。拝領高は一二五石余、本免は六ツ二分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一四石余、竈数四二。


門谷村
かどやむら

[現在地名]鳳来町門谷

鳳来寺ほうらいじ山南麓、門前の街を西門谷にしかどやまたはたんに門谷といい、寒狭かんさ川の支流音為おとなし川に沿って家並がある。三輪みわ川の支流寺下てらげ川上流にある集落を東門谷といい、三輪川の支流槙原まきはら川・大津谷おおつや川の流域も門谷村域である。黒谷くろや村・みね村・田代たしろ村とともに天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同七年鳳来寺領となる。

鳳来寺山表参道登山口にある臨済宗竜門山賢居げんきよう院は、寺伝によれば応永元年(一三九四)山野さんや庵と称し、初め大草おおくさ村に建てられ、二世月盛宝の時、現在地に移転した。


門谷村
もんだにむら

[現在地名]竹野町門谷

河内かわち村の南西、竹野川上流域に位置する。北西方に土生はぶ峠があり、峠を越えると土生村(現香住町)。天保七年(一八三六)までの領主変遷宇日うひ村に同じ。以後幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高四一石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数一七・人数九九、社四、牛五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android