平安初期の藤原冬嗣にはじまる邸宅。平安京二条大路の南,西洞院の西。方1町の広さ。東西を東三条院,堀川院の南北2町の豪邸にはさまれ,これら3邸はいずれも摂関家とのかかわりも深く里内裏になることが多かったことで有名。冬嗣のとき唐風好みの嵯峨天皇が行幸し風雅な饗宴が催された。その後,藤原兼通が所有し,子の朝光も一時期居住した。それは当時,隣の堀川院にいた円融院が朝光の家の桜を一枝所望し,2人の間で歌のやりとりがあったことからもわかる。また閑院太政大臣と称し閑院流の祖となった藤原公季も伝領者の一人であった。この邸が里内裏にあてられた嚆矢(こうし)は11世紀中期の後三条天皇のときである。12世紀中ごろには摂政基房の所有下にあったが,ときに高倉天皇はこの邸で受禅し,里内裏とした。以後,後鳥羽,土御門ほか平安末から鎌倉時代の各天皇の里内裏となり,歴代の皇居と呼ばれるにいたった。その間,焼亡と再建をくり返したが,1259年(正元1)後深草天皇のときを最後に焼失後は建造されることがなかった。
執筆者:朧谷 寿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
… またこの傾向は,一面では里内の内裏化を促し,その造営に当たって平安内裏の主要な機能を取り入れ,里内裏のうちの中心的な皇居=本所の地位を占めるものも現れた。鳥羽,崇徳,近衛3代の皇居となった土御門烏丸殿はその早い例であるが,さらに鎌倉時代に入って,幕府により造営された閑院は,紫宸殿・清涼殿をはじめ,平安内裏の後宮諸殿舎を除く表向殿舎の規模が本格的に取り入れられ,後鳥羽天皇以後8代の本所的皇居とされた。その間,後堀河天皇の1227年(安貞1)大内が焼亡廃絶したため,閑院は平安内裏に取って代わる皇居となったが,その閑院も後深草天皇の1259年(正元1)に焼失した後は再建されず,当時の持明院・大覚寺両皇統対立の情勢を反映して,前者は富小路殿を,後者は万里小路殿・二条殿を主要な皇居とした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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